風のしるべ 4

〜はじめの一言〜
こちらの出会いの方が先になります。
BGM:
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「ちょっと!周りの目とか何かあったらって少しは考えてください!」

まったく、と気の強い女が鞄を肩にかけなおして原田のスーツから手を離した。鞄を小脇に抱えていた原田はパンツのポケットに手を入れている。

「あんた……。いい子だね」
「誤魔化さないでください!」
「俺、原田。原田忠一ってえの」

にっと笑った原田に困った顔をした後、眉間に皺を寄せていた女はむーっと原田を睨みつけた。ぬっと片手を差し出して身分証明、と言うと思い切り破顔した原田は懐から社員証を取り出した。

「ほら。怪しいもんじゃないって。これが名刺」

名刺入れを胸の内側のポケットから取り出すと一枚抜き出してぴらっと目の前に見せた。名刺と社員証を見比べた女は、納得したのか社員証を返してよこす。

「すみません。疑ったわけじゃないけど」
「最近じゃ、こんなんでも信用できんけどな。ちょいまち」

これもサラリーマンらしく鞄からボールペンを取り出すと名刺の裏にささっと番号を書いた。それをぴっと差し出すとにやっと笑った。

「これ、俺の携帯」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないけどさ。俺、あんた気に入ったよ。俺なんかのコト、気にしてくれるなんてさ。助けられてもはい、さよーならって消えちゃってもおかしくないくらいなのになぁ」
「そんなことしません!」

できるわけがないし、するわけがないと言いかけた女は、きっと顔を向けた。低い鼻がぷくっと膨らんで、思い切り息を吸い込んだのがわかる。そんな非礼などするわけがないという代わりに、怒った顔で名乗った。

「菅原まさみです!」
「まっさみちゃんんかぁ。可愛い名前じゃん」
「冗談はやめてください」

そばかすの多い顔、くせの強い長い髪。気の強そうな顔に少しだけ低い鼻。
可愛いなんてほとんど無縁で過ごしてきたまさみは馬鹿にされたと思って、頬を膨らませた。

「馬鹿にして……」
「馬鹿になんかしてねぇよ。あんた可愛いって」

まさみの背に合わせて少しだけ前屈みになった原田は、まさみの顔を覗き込むと人好きのする笑顔を浮かべた。

「なぁ。まさみちゃん、大学生?」

拗ねた顔のまさみを見ていると、ひどく胸が騒いだ。このままここで別れるには惜しいと思うのは、そこそこ軽くて、それなりに真面目な原田にしても珍しいことである。

自分自身がそれだけ執着することに苦笑いが浮かびそうになるが、今はまさみと少しでも話していたかった。

「ま、落ち着こうよ。お茶でもどう?そこの自販機だけど」

原田はまさみを促すとホームの自販機の前に行って、温かいお茶を一つ買うとまさみに差し出した。続けて、自分のコーヒーを買うと、先にベンチに座って、まさみに隣を促す。

かしっと音をさせてプルタブを開けると、コーヒーに口をつけた。

「あの……。これ、返します」
「なんで。名刺くらいいいじゃん」

片手にお茶のペットボトルを持ったまさみが名刺を差し出した。明らかに困惑している顔がまた可愛らしく見える。

「不細工な女からかっておもしろいですか?!せっかく、いい人だと思ったのに!」
「え?!ちょい待ちっ!マジで!本当に可愛いって思ってんのに」
「馬鹿っ」

まるで恋人同士の痴話喧嘩のような有様で、まさみは原田の顔を思い切りひっぱたくと、ちょうど滑り込んできた電車のドアが開いたところにぱっと飛び乗った。慌てて立ち上がったために、こぼしたコーヒーに原田が気をとられている間に、電車はゆっくりと動き出してしまう。

その向こうで思い切り顔をしかめているまさみは結局、お茶も名刺も持ったまま、原田のいるホームに背を向けて車両の奥の方へと行ってしまったようだった。

あっという間に走り去っていく電車にむかって、仕方ねぇなぁと呟く。

「可愛いと思ったんだけどなぁ」

心の中で失くしたピースがはまったようにとても満たされたような妙な感覚が押し寄せてくる。逃げられて、どこに住んでいるのかも、携帯さえ知らないのにそれでもひどく気持が弾んだ。

―― やっぱ、可愛いわ。そばかすも低い鼻筋もくるくるのちぢれっ毛も

まるで昔から知っていたかのように、何度も可愛いと呟いて、目にしたばかりの姿を思い出す。まるで、熱に浮かされたように何度も同じ呟きを繰り返すうちに少しずつ、懐かしいという気持ちが強くなる。

家に帰りつくと、その勢いのまま酒を飲んだ原田は、一人暮らしの部屋の中で倒れ込むようにベッドにもぐりこんだ。

「おう。左之」
「なんだよ。ぱっつぁん」
「コレ、行こうぜ」

くいっと手を傾けた永倉にすぐ原田は頷いた。酒とくれば断る理由などない。二つ返事で頷くと、羽織を脱いで気楽な長着姿に着替えた。

連れだって歩いていくと馴染みの店には上がらずに縄のれんに入る。最近の原田があまり店には上がらなくなったことを知っていて、あえて永倉もそちらには誘わなかった。

小鉢に入ったつまみと大きな白鳥を前に互いに手酌で飲む。

「それでどうよ。例のおまさちゃん」
「あ~?うへへっ」
「気持悪いなぁ」

にやにやと笑う原田を気持ち悪がった永倉が箸に手を伸ばすと、ちょいちょいっと肴をつまんで、再び酒に手を伸ばす。
結納も何もかもまだまだこれからではあったが、互いの事を認めてもらっただけでも嬉しくて仕方がないのだ。

「しかしさ、お前何も、堅気の娘じゃなくてもよかったんじゃねぇの?しかも大店の娘ときた日にゃ」

散々、それは原田も思った。家にいれば何不自由なく過ごせることはわかっている。それに、あれだけの店だ。後を継ぐでも、暖簾を分けるでもいくらでもこれからの先行きは立つというのに、こんないつ死ぬかもわからない自分が責任をとれるのかと思った。

「そうだな。そりゃー俺も何度も考えたよ。今でもな」

めでたく、近藤や土方の許可もでて、これから日取りやら段取りが待ち構えているわけだが、今ならまだ引き返せるとも思うのだ。
ん?と片眉をあげた永倉に、ほろ苦い笑みを浮かべる。何ができるわけでもなく、どうするわけでもなく。

「違ぇんだよ。俺がさ。駄目なのよ。あの娘がいないと駄目だって、そう思っちゃったわけよ」

まさか、と永倉はまじまじとその無精ひげの生えた、見慣れた男の顔を眺める。

この男の顔を眺めるようになってどのくらい立つだろうか。江戸から今まで随分長い付き合いである。そんな中でこんな原田を見たのは初めてだった。

– 続く –