迷い路 21

〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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「紅糸さん。少し落ち着きましたか」

床の上に倒れこんでいた紅糸の肩にそっと総司は手を置いた。すすり泣いていた声が小さくなって震えていた肩が止まったのを見て、総司が声をかけたのだ。

「……や」
「え?」
「……って頼んだのや」

泣きつかれた紅糸がふわぁっと浮き上がるように頭を上げた。乱れた髪もそのままに、紅糸は夢を見ているように囁いた。
掠れた声がよく聞き取れなくて、もう一度問い返した。

「ごめんなさい。紅糸さん、よく聞き取れなくて……」
「……殺してって頼んだんどす」
「え」

焦点の合わなかった紅糸の涙に濡れた目が総司を捕らえた。その目の力があまりに強くて、目を逸らせなくなる。

「たくさん、人が殺されはったらきっとお調べが入ります。下の方々だけでなく、花街の探索やったら副長はんも必ず出張ってこられるはず。そやから」
「何を言って……。紅糸さん?!ちゃんと話してください。誰に頼んだんです?何をしたんです!」
「うちは鬼になったんどす。沖田先生。先生と同じ、うちも鬼や」

総司の言葉をまったく聞いていない紅糸の言葉が、嘘偽りではないことに気づいた総司は、眉を顰めて紅糸の両肩を強く掴んだ。

「聞いてください!紅糸さん。いいですか。初めからきちんと話してください。誰に、何を頼んだんです!!」

つうっと紅糸の目から涙が零れ落ちて、朱色の紅に塗られた口元が笑みの形をとる。

「初めは……、このお人。誰やろなぁって思ったんよ。雨の中でも、時々この辺りまで来て、支度前でお湯屋や買い物に店から出る誰かをみてはるようやった……。よぉ見かけるお人で……いっつも泣きそうな顔して。きっとええ人がここにあるんやろうなぁって」
「それで?!」

指先が食い込むほど掴まれているというのに少しも痛そうなそぶりもないまま、思い出に浸っていた。

気持ちの悪い汗が浮かんできて総司を不快にさせる。

―― 誰の、いったい何の話をしているのか……

紅糸の優しい心遣いも気配りも、逢いに来るのがそれなりに楽しみなほどには、総司も紅糸の事を気に入ってはいたのだ。その紅糸におかしな真似はさせたくなかった。

「それで……。声をかけてみたら、もう会えへんて……。そんな資格はもうない、でも離れることもできひんから、こうしてせめて傍にいるつもりになってるんやて言う。初めは可哀想で見てられへんかった。そやさけ、少しでも様子を教えたり、暮らしぶりを教えたりしてあげてましたんえ」

眉を顰める総司に、構わず紅糸は話し続ける。出会いはもう三月も前の事だった。

「うちも、せいぜいが噂話を耳にするくらいが関の山。そんな妓と同じ思いを抱えてはるお人の手伝いをしたかった」
「……そんなこと、気軽にできる事でもないでしょうに」
「もちろん。簡単な事やおへん。それでも、自分の苦しい想いもそれで少しだけ救われるような気がしたんどす」

会いたくても会えない人のうわさ話だけでも知りたい。様子を聞きたい。
たったそれだけのささやかな願いだったのだ。共に、想う人の様子を少しでも耳にすることで心の支えとなる。

「うちなぁ……。そのお人が来るたびに、そっと教えてあげた。今日は誰が相手やったか、その中でもお侍はんがいたらどこのどなたはんか。具合悪うしてなかったか、こんなお菜に喜んではったとかなぁ」

ざわざわと背筋を不快なものが伝わってくる。どう考えても、紅糸が今、それを総司にいうということは、その相手が総司達に関わりのある人物に思えてならなかった。

「紅糸さん。その相手というのはうちの隊士ですか。だとしたら……誰です。名前は」

―― そうでなければいい。そう思うことに限ってそうなってしまうのはなぜなんだろう

肌を引っ掻くような不快感に嫌気がさしながらも密かに始末がつく話ならそうしてやりたい。
そんな思いもあって、総司は相手の名を尋ねた。

だが、紅糸の思いは違う。

「嫌や。沖田先生がうちのことを抱いてくれたら教えます。……うち一人が闇に堕ちるなんてそんなさみしいことできまへん。沖田先生」

真っ白な紅糸の手が動いて、総司の胸の真ん中に掌が触れた。ゆっくりとその手が下に降りていく。嫌な汗を感じた総司の喉がごくりと動く。

「さぁ?沖田先生」

嫣然とした笑みを浮かべた紅糸に引き込まれそうで、総司は乾いた唇を動かしたが、ただ口の中で空気が動いただけだった。

着物越しに総司自身に紅糸の手が触れる寸前、総司はがばっと立ち上がった。

「あなたは間違っている!こんなことで寂しさなんか埋まりはしません!」

顔を逸らしてそう怒鳴った総司に向かって、紅糸ははたりと落ちた掌をぎゅっと握りしめる。

「あほやなぁ。せやから鬼になったんやって言うたやありまへんか。間違いなんかありまへん。沖田先生に抱いてもらっても寂しさは埋まりまへん。ただ……人を斬る鬼が、きれいなままなんて許さへん」

どこまでも紅糸と総司の言葉はすれ違う。

総司さえ来なければ、いや、総司を連れて土方が来なければ、ささやかな幸せだけを胸に生きて行けたかもしれない。
それでも、会いたくてたまらなかった、偶然見かける事しかできなかった土方が、総司を連れてやってきてしまった。相手にされなくても、会えただけで嬉しかった。

だが、心は貪欲で。

総司が優しければ優しいほど、いい人であればあるほど、紅糸の心は追い詰められていく。ささやかな幸せのための零れ話は少しずつ中枚を変えて、どす黒い憎しみの塊へと姿を変えていく。

「そんなことで!……土方さんが手に入るとでも思ったんですか……」
「手になんかはいらなくてええんどす。あの人は、誰のものにもならへんから」

ぐっとこぶしを握りしめた総司は、もう紅糸の傍にはいられないと思って羽織を手にした。濃い色の羽織が波打つように広がって、乱れ箱から消える寸前に紅糸の手がそれを掴む。

「これがどうしようもない情念やありまへんか……?心底、惚れた方を一目みたい、一度でいい、腕に抱かれてみたい。命がけの想いやからや。沖田先生には……、お分かりになりまへんか」

どうしても恋しい人に会いたくて、火事を起こした八百屋お七と同じように、命がけだからこそ、鬼になれるのだという紅糸が、総司には恐ろしいものに見えた。紅糸自身が恐ろしいのではなく、その深い業と情念は周りを巻き込まずにはいられない嵐のようなものだ。

そしてそれは確かに、総司の胸の中にもある。セイを想う気持ちがいつ、そうならないとも限らない。振り子はどちらにも揺れて、簡単に覚悟を揺らがせてしまうのだ。

「……わかりません。私には……、人を斬る刀を持つからこそ、その重さも想いもあなたが言うものとは違うものに思えてなりません」

くん、と一度緩め手をもう一度引くと、羽織は簡単に紅糸の呪縛から逃れて総司の手の中に来る。
それを羽織った総司は、一瞥もくれずに部屋を出た。

 

– 続く –