迷い路 26

〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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「喜三郎。私、ううん、うち、島原へ行こうと思う」
「お香?!何をいきなり……!」

ある日の晩、夕餉を終えて茶を飲んでいた喜三郎の前に座ったお香がいきなり切り出した。前触れもない話に、喜三郎が目を剥く。

「少し前に三味線のお師匠さんから聞いたの。何があったのか」
「お香!お前はそんなことは考えなくてもいい。俺がよい家を見つけて、兄代わりとしてきちんと嫁に……」

慌ててさえぎった喜三郎の様子に、表に出ていた喜三郎は何があって、お香の父がどうなったのか、とうに知っていたのだとわかる。それをお香に今まで言わなかったことも何となくわかる気がした。

「お嫁になんていかなくていい」
「馬鹿なことを言うな!」

動揺する喜三郎を前に、ひどく落ち着いたお香は、自分の身の振り方をすでに心に決めていた。

「このままお嫁に行ったとしても、所詮は、貧乏御家人と大差はないわ」
「そんなことはない。俺がよい方を見つけてやる!」
「そんな見も知らぬ方のところに行って、私が幸せになれると思うの?親もなく、後ろ盾もない私が?たとえ、喜三郎が後見に立ってくれたとしても、喜三郎もお役についているわけでもなく、どこかの藩に仕官しているわけでもないじゃない。そんな喜三郎の後見なんてどれだけのもの?それに、好きな剣術もできず、こうしてふわふわと身の定まらない暮らしを続けていても行く末は」

ひどく冷静に淡々と続けていたお香の言葉を喜三郎の振り上げた手が止めた。
乾いた音がして、お香の頬が赤くなる。

お香の言う事はいちいちもっともで、喜三郎自身も考えなかったわけではない。だが、それでも残る金をすべて使い尽くしても、お香だけは武家の家に嫁にやって、まっとうな道に戻してやりたかった。

そのために、喜三郎は危ない橋を渡りながら苦手な付き合いをし、良い話がないかと探し歩いていたのだが、お香はそれを真っ向から否定してきたのだ。

「お前は武家の娘だぞ?!あるべき立場に戻ることに何の不満がある!俺が親父殿の代わりでもあり、兄代わりでもあるんだ。家長と変わりない俺の言うことに逆らうなんて許さない!」
「いくら喜三郎がそう言っても、世間はそう甘くないわ。喜三郎だってとうにわかっているはずよ。私達はこのまま、何一つ定まらないまま、二人で暮らしていくか、共にそれぞれで生きていくか、二つに一つしか選べる道はないのよ」
「そんなことはない!」

もはや、駄々っ子のように今にも泣きだしそうな顔で否定する喜三郎に噛んで含める様にお香は続ける。喜三郎にも本当はそれしかないとわかってはいたのだろう。真剣に、お香の嫁入り先を探す一方で、お香を手放したくない。このまま二人だけで暮らし続けたいと願っていたことも間違いなかった。

「そんなことはあるのよ。喜三郎が大好きな剣術を諦めて、ふわふわといつまでも身の定まらない暮らしができるなんて思わない。私だって……、そんな喜三郎の傍にいるなんて嫌」

いつまでも二人だけで、暮らせるならそれも夢に見よう。でもそんな甘い夢などないことはわかっている。

男ができることを女の自分ができないはずはない。自分が持てる力で這い上がれる道があるのだから、その道を自分が行くことで喜三郎が望む道を進んでほしい。

安易かもしれないが、足手まといのお香がいるよりも、喜三郎一人の方がどうとでも動き様があるはずだった。

「いつまでも、こうしてはいられない……」

いつのまにか傍にいることが当たり前になっていた、大好きな喜三郎だからこそ。
それは女だからこその考えだったのかもしれない。膝の上に置いた手の親指をもう片方の手が強く握りしめた。

「嫌だ!お前が嫁に行くなら、お前が幸せになると思うから耐えられるのに、お前がどこの誰とも知れない男の相手を、毎日、毎日だぞ!」

噛みつくように怒鳴った喜三郎から目を伏せたお香にもそれは未知故に強気では返せない。

「太夫は花を売るだけやない。私は、ううん。うちは、武家の娘として三味も琴も、歌もならってきました。芸に磨きをかければいいなら、なんぼでもかけましょう。そして、うちは必ず太夫になって見せます」
「お前には無理だ!駄目に決まってる!」
「無理やおへん」
「その言葉をやめろ!!」

普段から全く使わないわけではないが、お香は京言葉を使わない。逆に島原に入るなら東言葉は捨てる。その意思表示に喜三郎は中腰になると、手にしていた湯飲みをお香にはあたらないように投げつけた。

お香から、すうっと何かが冷めていき、何か、ひどく切なくて愛おしい気持ちになる。
ずっと、兄のように後ろをついて歩き、いるのが当たり前になっていた。少し、おっとりしていて几帳面で、頼りにしてきた喜三郎が、これほどまでに動揺し、怒り、取り乱す姿にその胸の内を初めて知った気がする。

いつもお香が好意を見せても曖昧に笑って誤魔化したり、話をはぐらかしていた喜三郎が絶対に見せなかった本音が伝わってくるのだ。

―― もっと、早くに言ってくれればよかったのに……

もっと早くに好きだと、自分だけのものだと言ってくれれば迷わずに済んだのに。
でも、もう自分はその道を選ぶことはないだろう。喜三郎がどう思っても、お香はもう立ち止まるつもりなどなかった。自分のためだけでなく、喜三郎のためにもこうすることが一番いいはずだ。

「もう決めたの。喜三郎も、自分の事を考えて。身の振り方を考えて」
「俺のことはどうでもいい!お前が……お前だけが幸せでいてくれたらそれでよかったのに」

お香が好きだと、惚れているからこそ行かないでくれとは言えない。お香のいう事がもっともすぎて。
不甲斐無いのは喜三郎自身だった。喜三郎が捨て身ではなく、二人で生きていくための手立てを考えていたら違っていたのかもしれない。

あまりに急なことに、もはや頭もついていかず、自分自身でも何を言っているのかわからなくなり始めていたが、お香を好きにさせることだけは出来ない。
誰とも知れぬ男達の手に委ねるくらいなら。

再び腰を落とした喜三郎が顔を伏せるとその暗い瞳も見えなくなる。

「……どうしても行くというのか」
「どこにいても、聞こえるような傾城になってみせます」

喜三郎がどこで何をしていても、自分はここにいるのだとわかるくらいになる。

明るいはずの行燈の灯が揺れた。部屋の隅に飲みかけだった茶と湯飲みが転がって畳を濡らしている。

―― 暗い。どうしてこの部屋はこんなにも暗いのだろう

目の前にいるお香の姿さえ危うくなるほどに。
共に、まだ若いからこそ、現実を知り、そして知らない。

はっとお香が顔を上げるよりも早く、喜三郎は目の前の畳に片手をついて身を躍らせた。

「あっ……!」

まるでそうすることを何度もくりかえしていたかのように、無駄のない動きでお香を抱き倒した喜三郎は、お香の両手を頭の上に押さえ込んだ。驚くお香が本能でもがき暴れるものの、男の力に敵うはずもない。

互いに夢見たはずだった時間は、思いがけないほど突然に襲い掛かった。

– 続く –