迷い路 29
〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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まずい。
頭の中でそんな警鐘が鳴り響く。途中で濡れた足を取られる草履も脱ぎ捨てて、裸足のまま全力で走り抜ける。すぐにあとを追いかけた総司が先を行き、セイが提灯を手にしていることもあって少し遅れて走っていく。
途中で総司も高下駄を跳ね飛ばして走るが、ここはどうしても柴田に分があったといえる。逃げる道筋も頭に入れていた上に、総司達よりもずっと夜目に慣れていた。
かろうじてぎりぎりをすり抜けた柴田はなんとか、大きく裏を回りながら興正寺の側から西本願寺に滑り込む。縁の下に潜り込むと、中腰で進みながら次々と着物を脱いでいった。
隠し場所まで何とかたどり着いた柴田が濡れた着物をひとまとめにして、隠した荷物の脇に押し込むと、自分の二の腕から血が滲んでいることに気づく。
「……くそっ」
小さく呟いて、隠しておいた風呂敷の一番底の方から乾いた手拭いを取り出して、急いで体を拭う。夜着を身に着けて、髪を撫でつけると、雨に濡れないようにそっと這うようにして屯所へともぐりこんだ。
厠のあたりまで雨を避けながら進むと、手水のところで泥にまみれた足を洗う。最後に手拭いで足を拭いてから庭下駄をつっかけて移動する。
冷え切った体だが、見た目には何事もなかったようにしか見えない。そうっと隊部屋にもぐりこむと、傍にいた隊士が、ううん?と薄目を開けた。
「なんだ。お前……。随分いなかったな」
「腹壊しちゃって……。もう足がしびれるわ、寒いわ……」
「ふうん。早く寝ろよ……」
―― ああ。早く寝るさ……
話の途中で再びいびきが聞こえ始めて、周りの隊士が寝入っていることを確認した柴田はそっと部屋の奥にある自分の行李のほうへ近づいた。ゆっくりと音がしないように気を使いながら、手拭いと包帯を取り出す。自分の布団までそうっと戻ると、血のにじんだ腕の手当にかかった。
はあ、はあ、と息を切らしながら総司に追いついたセイは、消えてしまった提灯を持って膝に手をついた。
「……にげ……」
逃げられました、と言おうとしたがなかなか声にならない。荒い息を吐いてはいるものの、さすがに総司の方はまだそこまでではない。
「逃げられましたね……。神谷さん、あなたはこのまま屯所に戻りなさい。私は」
「駄目です!」
それだけははっきりと叫んでから、大声を出してしまったために、ごほごほっと咳き込む。大きく息を吸い込んで呼吸を整えると、セイは総司の袖口を掴んだ。
「駄目です。先生。こんな雨の中であとどれだけ追い回しても、たった一人じゃどうしようもありません。それよりも、副長に報告に行くべきです」
「……まんまと逃がしましたと報告しろと?」
自嘲気味に頭から流れてくる汗と雨の混ざったものを拭った総司は、自分自身も冷静ではないと思い返した。紅糸にあてられたのもあるのかもしれないが、どうにも妙にざらついた気分なのは否定できなかった。
じっとりと湿った笠が鬱陶しくて、ちぎる様に引っ張って外す。本格的に濡れた方がいっそ心地よかった。
片手で濡れた髪をかき上げると、息を吐いて笑みを浮かべる。
「すみません。そうですね。副長は今日は戻らないでしょうし、一度屯所に戻りましょう」
慌てて閉じて走ってきた傘を開いて総司に差しかけると、すっとそれを取り上げられる。
「神谷さん、すっかり濡れちゃいましたね。風邪ひいちゃいますよ?」
「沖田先生こそ」
「二人揃って、水も滴るいい男ってことですね」
ふっと笑って、セイの肩をこれ以上濡れないように引き寄せると屯所に向かって歩き出す。セイには肩に触れた手から総司が緊張を解いていないことが伝わってくる。ただ、捕り物で逃がしたというよりも、紅糸を止めたかったのかもしれない。
総司が持つ傘の柄に手を添えたセイも総司の笑みに乗せて微笑んだ。
「沖田先生。大丈夫です。紅糸さんもただでは済まないでしょうけど、それでも必ず止めましょう!」
あ、と驚いた顔を見せた総司は、くしゃっと今度こそいつもの笑みを浮かべてセイの頭に自分の頭を寄せた。
―― あなたって人は全く……
仕方のない人だと思いながらも、二つの感情に引き裂かれる。それをきれいに包み隠して、総司は前を向いた。
「行きましょう。二人そろって鼻水を垂らしていたら、土方さんに何を言われるかわかりませんからね」
暗いながらも魚棚あたりからなら月のない晩でも迷わずに屯所に戻ることくらいできる。二人は足早に屯所に向かって歩き出した。
もちろん柴田が走り抜けた興正寺の間の通りではなく、西本願寺の正面を回っていつもの太鼓楼の門から入る。
「おかえりなさいませ。沖田先生って、ずぶ濡れじゃないですか」
「ええ。誰か遊びから戻った方は?」
「いえ。今夜はこんな雨ですからね。どなたも」
「そうですか」
にこやかな会話だが、さりげなく屯所の出入りを確認する総司の顔を見上げたセイは、何も言わずに大階段の方を見上げた。廊下の釣り燈籠とあちこちに灯る灯りがまぶしく見える。
門脇の隊士と話を終えた総司に促されて、セイは大階段に向かった。門限になったかどうかという時間だが、すでに屯所は静まり返っていた。
「風呂に火を入れてもらいましょうか」
「私は構いませんから神谷さん、入っていらっしゃい」
「いえ!とんでもないです。そんな……」
「じゃあ、一緒に入りましょうか?」
少しおどけた総司の物言いに、真っ赤になったセイがからかわれたと思ってしりません!というと、すたすたと歩いて小者を捕まえに行った。
ふふ、っと笑った総司は先に隊部屋の前まで向かう。障子をあける手前で立ち止った総司は、手にしていた刀を目の前に持ち上げる。
―― 確かに、僅かだったが手ごたえがあった
鞘を掴んで刀を引き抜くと、廊下の灯りに刀の刃を確かめる。薄皮一枚程度では、刃の曇りなど残っていないかもしれないが、それでも確かめたかった。
「私との違いは、薄皮一枚ですかね」
恋情のもたらす修羅は総司の胸にもある。一歩踏み出すかどうかだろう。
– 続く –