迷い路 28

〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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あるはずの金は、小判どころか一分銀の一枚さえない。ただ、その上の着物の上を右に左にとお香の櫛だけが滑って一番端にあたった時に、こつん、と音を立てた。

「……なぜだ……」

がくりと腰が抜けたようにその場に座り込んだ喜三郎はその櫛を手にして握りしめた。

その櫛は今もまだ、柴田の手にある。
懐から取り出した櫛はところどころ色が剥げかけていた。

雨に濡れていても、何も気にせずに物陰に潜んでいた柴田は、暗闇に慣れた目でその赤い櫛をじっと見つめる。あの日から、一文の金もなくなった柴田は当座の金を用心棒をすることで作り出すと、身支度と支度金を作り出して新撰組の募集に応じた。

「そろそろ仕舞の客が帰る頃か……」

懐に櫛を仕舞い込むと、のっそりと立ち上がる。
島原の大門を抜けた場所から帰っていく客たちの中でも金を持っている武士を探すつもりだった。

「武士でないとな……」

どうしても柴田が武士であることにもこだわっていたお香のためにも。

半眼を閉じた柴田は、ゆっくりと目を開けるとちらほらと揺れ動く提灯の灯りが一か所に集まってから散らばっていくのを見ていた。

―― 獲物は……

 

 

「沖田先生。紅糸さんが殺しを依頼したってどういうことなんでしょうか」

黙っていられなくなって、セイは総司にも傘をさしかけながらそう問いかけた。訳は紅糸から聞いている。だが、理解できないのだ。

暗い夜道がますます暗く感じてしまう。

「……おそらく、武士でしょうね」

武士でなければ、土方をひっぱり出せないだろう。武士が武士を斬るからこそ、新撰組と、土方という男をひっぱり出せるということだ。

「武士か、または武士のような、私たちのような者に仕事を頼んだのでしょう。出なければあの人は出て来やしませんからね」
「そんなの……。そんなことをしたって」
「どうしようもないことくらい、紅糸さんだってわかってますよ。それでも」
「……それでもどうしようもないのが恋だと……」

黙って頷いた総司は、厳しい顔であたりの気配を探る。
セイには紅糸の狂気を理解できないだろう。胸の内の奥底で暴れる野生の獣のような感情を知らないはずだ。総司の胸の奥でも時折宥めすかしても言うことを聞かない獣がいる。

「……だからと言って、それを許していいかどうかは別問題です」
「……はい」

揺らぐ提灯の灯りが照らすのは、ほんの少し先までである。物陰に潜んでいたらその気配を掴まないことにはわからないだろう。

「神谷さん。提灯の灯りをもっと高く」

総司に言われたとおり、少し高く提灯を突きだしたセイは総司の足元ではなく、先を照らすように掲げた。

離れたところから見ていた柴田には、それがまるで主人の行く先を照らす供の者と主だと見えた。

「来た……」

―― ちょうどいい

暗闇に潜んでいた柴田は、雨に紛れてその灯りに向かって近づいて行った。

総司が笠をかぶっていたことも同じように見誤るにはちょうど良かった。足音は雨音に紛れていても、まっすぐに総司とセイに向かってくる意識は柴田には隠したつもりでも隠せていない。総司はびりびりと迫ってくる意識に背筋を震わせた。

「神谷、さん」

セイの肩に回した手を強く掴む。右後ろの方から近づいてくる気配を避けるようにぎりぎりまで間合いを計ってから、セイを思い切り突き飛ばして、柄に手をかけた。

「ひゃぁっ!!」
「っ!」

暗闇の中から膨れ上がるような意識と、真っ黒な塊が迫ってくる。最後の瞬間に頬かむりをした柴田は身を低くして走りこんできた。走りながら刀を引き抜いた柴田は、いつもなら驚いて慌てふためき、逃げようとする相手の姿を見て、その一瞬に溜飲を下げるのに、相手が供の者らしい提灯を持った相手を突き飛ばして、腰を落としたのをみて、まずい、と一直線だった足を斜めに向ける。

まれにあるのだ。手ごわい相手に向かってしまうこと。そんな時は供の者に向かって行き、相手の隙を狙うのだ。

―― やれるはずだ。いくら下手の横好きの俺の腕でも

「――っ!!」

突き飛ばされて、つんのめるように離れた提灯の灯りに向かって、刀を向けたと柴田が思った、いや、思っていた瞬間、真横から刃風が向かってくる。
本当に強い相手の場合は、それでもやられる。

走りこんだ勢いのまま斜めに退いた柴田に次の一手が繰り出される。右の二の腕あたりを正確に狙って来た。

反射的に引いた手に握られていた刀の鍔元で、かろうじて刃を受け止めると、互いにすぐ刀を引く。暗闇に慣れている柴田の方にわずかに分があった。

立て直した供の提灯が高く掲げられるが、その灯りが届かない程度の間合いを取る。

「……どこの方か存じませんが、あなたの思い通りにはなりませんよ。私は新撰組、一番隊組長沖田総司」
「!」

びくっと刃先が揺れた。
総司にはよくあることだが、相手の方が総司のことを知っているらしい。確かに名が売れているのは確かだけに、その程度で相手を判断できはしない。

だが、相手の方、柴田のほうは違った。

―― まずい!!

確かに今日は土方と共に総司が島原に出ているのは知っていたが、こんな時間に表に出ているはずがなかった。薄く切られた右腕を押さえてすぐ、柴田は身を翻した。

「待てっ!!」

背後から追いかけてくるセイの声を聞きながら、柴田は全力で走っていく。

– 続く –