風のしるべ 10
〜はじめの一言〜
歴史って、過去を旅するようなもんですねぇ。荷造りも入らない旅だ
BGM:Zhane Hey Mr. DJ
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「ねぇ、富永さん。お願いがあるんだけど」
「なんですか?」
「今度一緒にあの人に会ってくれないかな」
アノヒトニアッテクレナイカナ。
初めはまさみが何をいったのか、さらりと耳を流れて行って、理解するのに時差が生まれる。何度も耳の中で繰り返した未生は、ようやく頭にそれが入ってくると危うく、グラスを倒しそうになってしまう。水滴が流れるほどついたグラスをはっしと手で押さえた未生ははぁ、とため息をついた。
「……今日のセクハラさんにですか?」
「うん。お願いっ!!」
「えぇ~……」
同じバイトで、原田の顔も見知っているからこそだと両手を合わされると、行きがかり上、断るに断れなくなる。年下の自分がいうのもなんだが、確かにまさみのほうがどこか頼りなくて、自分の方がしっかりしている気がする。
「仕方ないなぁ……」
「ありがと~~!!」
ここは奢る、と喜んだまさみにいいですよ、と言いながら、目の前の人のよさそうなそばかす顔を未生はため息をついて眺めた。
「じゃあ、俺。行くわ」
いつもと変わらない笑顔の原田に、気丈にもおまさは笑顔を浮かべた。
このところ、幾日も家に戻ってこなかった原田が久しぶりに家に帰ってきたのはその日の朝も早い時間だった。ちょうど目が覚めて朝の支度をしていたところで裏口が開いたのだ。
「よう。おまさ」
「左之はん。いやや、なんでそんなところから」
ごく自然に口をついて間が抜けたような言葉が出てきたが、そう言えばそうかと思う。今や、新撰組をつけ狙う者達がどれだけいるのか考えただけでも頭が痛くなりそうなのだ。
そんな状態だけに、原田がひっそりと裏口から戻ったことも当然といえば当然だった。だが、原田はそんなことはおくびにも出さない。
「へへ。ちょっと驚かそうと思ってな。茂は起きてっか」
「もちろん。まずはその埃臭い着物を着換えてからどす!」
幾日も戻らなかった割には、原田の身なりは小ざっぱりしていた。せいぜい、一晩、着続けた程度の着物だったが、それでも着替えさせたいと思うのは妻としてもっともなことだった。
かなわねぇな、と首を竦めた原田は、刀を置いてばさっと羽織を脱ぐと部屋に上がる。前掛けで手を拭いたおまさが急いで着替えの支度にかかった。
一つになったばかりの茂は、そろそろ上手く寝返りをうつことができれば、何かに掴まって立ちあがる様になっていた。おまさが台所に立っている間に、手伝いのお千代が茂の着物を着替えさせていたところだった。
「お~っ!茂ぅっ!」
最後に帯を締めているところで帰ってきた原田に気づいた茂は、お千代の手を振り切って父に向かって手を伸ばす。その茂を抱き上げた原田は、帯を引きずったままでぎゅっと抱きしめた。
久しぶりの父の顔を小さな手がぴしゃぴしゃと叩く。加減を知らない子供のすることだけに、それなりに痛いだろうが笑うばかりで原田は怒ることはない。
「はっはっは。元気がいいなぁ。お前、朝からいいぞ~!」
困った顔をしたお千代の肩に手を置いたおまさは代わりに台所を頼んで、久しぶりに部屋の中には家族が揃った。
「すまなかったな。なかなか帰れなくてよ」
「そんなん、左之はんのお嫁はんになったときからとっくと、覚悟してます」
背を向けたまま、おまさの顔は見ずに話しかけた原田は、きっぱりと言い返したおまさの返事に弾けるように笑い出した。
「あっはっは!さすがおまさだよな!」
きゃっきゃと喜んでいる茂を、高い高い、とあやしながら振り返った原田は、家に帰って初めておまさの顔をみた。
おまさは、その顔に色濃く浮かんだ疲労の色を見て取った。原田にしては髭も剃り、髪もきちんとしていて、着物同様に昨日のうちに整えていたのは見ればわかるが、そんなことでおまさも誤魔化されはしなかった。
気丈に振る舞っていた目が大きく見開かれて揺れた。
「あ。あの……!朝餉!そう、朝餉くらい食べて行かはるんやろ?」
「ああ!久しぶりにおまさの飯が食いてぇなぁ」
「もうっ、すぐ支度するし!」
ぷいっと顔を背けたおまさは、動揺を気取られない様に急いで台所へと逃げた。いくら、原田の仕事のことには口を挟まない様にしてきたとはいえ、ここまでくればおまさにも世の中が、そして新撰組というところがどうなっているのかわかっている。
いつ原田が帰ってこなくなるか。いつ、新撰組が京を離れてしまうか。
京都守護職も廃止され新撰組もその名前ではなくなるという話さえある。そんな不安の中でおまさはじっと原田の帰りを待っていたのだ。
台所に立って、下を向いてしまうとじわりと涙が溜まってしまう。お千代が心配そうな顔で横からおまさを見たが、何も言わず、一人分、増えた朝餉の支度を済ませた。
「うめぇ!やっぱり違うぜ」
久しぶりの家の飯を嬉しそうに平らげはしたが、それでも今までお櫃が空になるのではないかと思うほどおかわりを繰り返していた原田が、何も言わず一膳だけで箸をおいた。
「旦那様、おかわりは?」
お千代が気を利かせてお盆を差し出したが、いや、と原田は首を振った。本当は、ひどく疲れ切っていて、飯など通るものではない。
―― 何日も、眠ってへんのやろうな
目の下に黒々と浮かんだくまがそれを物語り、家に来てから顔を洗っていたにも関わらず、疲れから顔には脂が浮いていた。気を付けていたのに、僅かに歪んだおまさの顔に気づいた原田はお椀を差し出した。
「汁だけでももらうかな」
「はい」
頷いてすぐにお千代は台所に向かい、温めた汁を運んでくる。その間、茂の世話をしていたおまさは、たらりと小さな口から零れた粥を指先で拭った。
「ちょっと見ない間にでかくなったなぁ」
「そら、赤子は毎日違います」
「だな」
その先を聞くのが怖い気がして、おまさは黙り、お千代は近所での出来事、茂の様子、おまさの実家の様子など、次から次へとしゃべり続けた。
それもやがて朝餉が終わると、原田が茂と遊んでいる間に、おまさとお千代は、共に原田の着替えと屯所に持って行ってもらうための荷物を揃える。
それが終わると、原田に着替えをすすめた。結局、朝餉を取っていたのでまだ着替えていなかったのだ。
何も言わず、素直に新しい着物に着替えた原田は、茂の頭を愛おしそうに撫でる。
– 続く –