寒月 29

〜はじめの一言〜
武士とは・・・・面目が大事ですから。無謀と知りつつも虎穴に入るのです。
BGM:May’n   ライオン
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山崎からの文を読んで、土方は一人裏門から外出しようとした。その後を追って、斉藤が現れた。

「土方副長、外出ですか」
「ああ。ちょっとな」
「非常の折です。お一人での外出は控えて供をお付けください」

じゃりっと足元で踏みしめた音が乱れる。表情は変わらないまでも、その一瞬を見逃す斉藤ではない。

「お一人のほうがよろしければ、離れてお供いたしますが……」
「いや……。まあいい」

そういうと、再び歩みだした土方の後をついて斉藤が歩き出した。本願寺の塀沿いに回り、祇園に足を向ける土方の後を黙って斉藤はついて いった。すでに、体調も整い、不覚を取ったことについては咎めなしといわれているが、斉藤にとってはその程度で済むはずはない。口には出さないまでも、い つも以上に働きづめだった。

祇園の街中から一本入った道を歩む二人の周りの空気が、いやに静かになった。町人しか見えるあたりにはいないのに、やけに人通りが減っている。確かにもうすぐ日が暮れるとはいえ、家路に進む者達が少ないのはおかしい。
すいっと歩み寄って土方についた斉藤は、刀に添えていた手で鞘を掴み直した。

二人が歩む先にある一軒から、大店の主人風の男がまるで目の前の通りさえ我が家のような顔で歩み出てきた。

いくらも間をおかずに、土方の少し後ろを歩んでいる斉藤に向かって近寄ってくると、男はにっこりと人の良さげな笑みを浮かべた。

「これはこれは。斉藤先生、お元気そうでなによりですなぁ」

腰も低く話しかけてきた男をみて、斉藤はぎくっと足を止めた。自分達に向かって近づいてくる男には二人とも気がついていたが、目当てが斉藤だったということで、土方は足を止めたものの、正面からは男を見ていなかった。

「お前は…!」

低く応じた斉藤の声が怒りに満ちている。あの後の記憶は定かではないものの、今この男を目の前にしてはっきりと思いだした。この顔を忘れていたことも暗示の一種だったのだろうか。眉をひそめた斉藤が初老の男に体の向きをかえた。
その声に振り返った土方は、その男、万右衛門と正面から視線をあわせた。

「そちら様は新撰組の土方副長さんとお見受けいたしましたが、間違いありませんですやろか」
「誰だ、お前は」
「へぇ。伊勢屋万右衛門と申します。先達ては斉藤先生をお世話さしてもらいました」

堂々と、斉藤をかどわかしたのは自分だと名乗った万右衛門に土方は、斉藤をちらっと見た。険しい横顔にそれが嘘ではないらしい。

「それで?」
「さすがは副長はんですなぁ。驚かれまへんか」
「驚いてほしかったのか?」

土方の問いかけに、それまで人のよい好々爺風情だった万右衛門の表情が生々しいものに変わった。ぎょろりと見開かれた目が、元締めと恐れられる万右衛門の迫力を醸し出していた。しかし、それが並みの町人であれば怯えたかもしれないが、相手は鬼の新撰組の副長と組長である。

「さて。少し位驚いてくださるかと思いましたが、面白くもない……」
「俺達に道化をさせたかったなら、もう少し面白い仕掛けをして来い。用はそれだけか?」
「とんでもないことでございます。お楽しみいただくのはこれからでございますよ」

そういうと、二人を案内するように万右衛門は今出てきた花菱に向かって歩き出した。土方を顔を見合わせた斉藤は首を横に振った。こうして後をついていって自分は襲われたのだ。

「副長」
「お前はこの揚屋に覚えがあるか?」
「……いいえ」

記憶のない間のことに関して言えば、斉藤も自分が連れてこられたのがここだったとは言い切れないが、それにしても危険は危険だ。みすみす土方を敵の懐に行かせるわけには行かない。
二人は同じ場所で動かないまま、万右衛門の動きを見守った。
花菱の店先で振り返った万右衛門は、にやりと笑い、中へと促す。

「ささ、土方様をお待ちしている者もおります故、どうぞご遠慮なくお上がりくださいまし」
「……俺を?誰だ」
「それこそ、後のお楽しみでございますよ。さあ、いかがなさいます?」

一瞬、斎藤が止める前に土方が踏み出した。はっと手を伸ばしかけて、斎藤はかろうじてその様をさらさずにすんだ。仮にも新撰組の副長の無様な姿など見せられぬ。

「斎藤。供をしろ」

振りかえった土方がにやりと笑った。どのみち、この揚屋の周辺にはすでに二人を取り囲むように狙いを定めた者達が待ち構えているのだろう。だとすれば今ここで万右衛門の後について行こうと、行くまいと結果はさほど変わらないはずだ。

「供……ですか」

―― 何も今言わなくてもいいだろうに

呆れた斎藤が、仕方なく土方の後をついて花菱に入った。全く豪胆なのかわからないと思う。玄関先で、お才が出迎えた。

「おこしやす」

この揚屋が万右衛門の持ち物とは知らない二人は、場所柄、刀をお才に預けた。お才から刀を受け取った喜助が奥に運んで行く。

裾捌きも艶やかにお才が離れへと二人を案内した。そこには酒肴の支度がされているがその数が多い。7つほど並んでいる。それを見て二人は顔を見合わせた。

「どうぞ、お座りくださいまし」

艶然と微笑んだお才が部屋を出ると、入れ替わりに万右衛門が部屋に現れた。二人の前に進み出ると、二人の目の前の膳にある盃に酒を注いだ。

「どうぞお召し上がりになっとくれやす。皆さんお揃いになるまでお待ちになったほうがよろしいですやろ」
「皆とは誰だ。何を待つ?」

土方の問いかけに応えずに、万右衛門が羽織の裾を払った。それを合図にしたように庭を背にした土方と斎藤の背後に喜助が立った。
二人の眼だけが互いの背後に向けられて、その姿が町人であることを確認すると、素手で応じるように意識を切り替える。

「さぁて。お楽しみはじっくりといかんと面白くもなんともありまへんからなあ」

実は、土方と斎藤には屯所を出た所からずっと後をつけられていた。喜助が使う店の者達が巧みに入れ替わり立ち替わり、気づかれることなく後をつけており、二人が祇園に辿りつく前に、万右衛門は文を届けさせていた。
それぞれに他言無用との但し書きをつけてある。

徐々に夕闇が漂い始める。

再び万右衛門と入れ替わりに、お才が部屋に入り床の間に香炉を置いた。そこから漂う甘い匂いに斎藤の中の記憶が刺激される。斎藤の着物に沁みついていたとはいえ、初めて嗅ぐ甘だるい香りに土方は眉をひそめた。

「さあ、ご遠慮なさらずにおひとついかがどす?」

注がれたままの盃に二人が手を伸ばしてもいないのに、お才は銚子を持って酒を勧めようとした。その白い腕を斎藤が掴むと、お才は腕を返してあっさりと掴まれた腕を外した。確かに、本気で捕まえるつもりで掴んだわけではなかったが、ただの女子がかわせる程度ではない。

お才も、町人ながら背後に膝をついている喜助も、ただ者ではないことがわかる。お才は何事もなかったかのように斎藤の目の前に膝を向けるとにっこりとほほ笑んだ。

「斎藤先生、覚えていてくださったんですか?」

ふふ、っとお才が笑って、あの時と同じ言葉を繰り返した。赤く塗られた紅がひときわ艶めかしい。

『神谷です。斎藤先生?お好きなだけ』

「……っ」

斎藤の手が膝の上で握りしめられた。表情を変えずに聞いていた土方は、斎藤の弱味はこれか、と思った。斎藤の眼の奥で何がが揺らめいた。

「斎藤センセ?」

甘い香りが部屋に満たされ始めた。

 

– 続く –