水の底の青~喜怒「哀」楽 8
〜はじめのつぶやき〜
BGM:ケツメイシ こだま
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「失礼してもよろしおすか?」
どのくらい時間が経っただろうか。
暗くなった部屋に灯りを運ぶために女将が現れた。部屋に入る前にそっと声をかけてからわずかに襖を開ける。
横になっていた総司は、ゆっくりと腕を上げた。
「灯りをお持ちしました」
部屋の中で総司が動いたのが見えたらしい。すすっと大きく襖が開かれて、行燈が運ばれてくる。
暗い部屋の中に女将が入るとぱぁっと明るくなった。しゅるっと衣擦れの音がして、総司が寝転んでいる縁側に近いところまで来ると、半分だけ障子を閉めた。
「お寒くありませんか?」
答えない総司を見ても女将は驚くことはなかった。部屋の中に二人分の席を設けると、廊下に運んできていた膳を部屋の中に運び込む。
総司を置いて部屋を出た斉藤から事細かく指示を受けていた。
夕餉を二人分運んでほしいこと、泊りになるだろうから世話をしてほしいこと。
うるさく事情を聞かずとも女将は心得顔で請け負ってくれた。心付けを含めて、大目に支払いも済ませてある。
「こちらに。お邪魔しないよう、すべてご用意しておきましたので、ごゆっくりどうぞ」
女将が部屋を出て行ってからしばらくして、目が慣れた頃に総司は起き上がった。
気にも留めていなかったが、起き上がって胡坐をかいた姿で部屋の中を見ると、なぜか二つ膳が並んでいる。
ずりずりと近づいて行くと、腫れぼったく感じる目でぼーっと眺めていた総司は、ふと思いついて懐から袱紗を取り出した。
セイの位牌と南部の家で切り取った遺髪と爪である。
袱紗を広げて一人分の膳の前にそれを置くと、自分も向かい合った席に腰を下ろす。
「……斉藤さんですね。あなたの好きなものばかり並んでますよ」
『兄上らしいですね』
「ええ。やっぱり斉藤さんにはかなわないなぁ」
―― みっともない姿を見せちゃいましたし
膳に並んだ料理を眺めた総司は、セイにねだった。
「ねぇ、神谷さん。斉藤さんのお見合いの時の格好、見せてくださいよ」
『えぇ?!女子姿をってことですか?』
「その格好のままで会ったわけじゃないんでしょう?」
普通に笑って話をしているのに、目尻に涙が浮かんでいる。仕方ないと頷いたセイが立ち上がった。
隣りの部屋に向かって一瞬消えたように見えたセイが、ふわりと姿を見せる。
見たこともないはずなのに、その場に桜色の着物が広がって、セイが座った。もっとこういう姿を見たかったとも思うし、普段のセイがやはり一番だという思いもある。
「……きれいですよ。セイ」
『……そこで呼び方変えますか?!』
「えぇ?だって、その格好で神谷さんって呼べないでしょう?」
ぶつぶつと頬を膨らませたセイを目を細めて見る。涙で見づらくなった視界を何度も袖口で拭った。
『先生……』
「すみません。止まらないんです。情けないですね。武士だから泣かないとあれほど言ったのに」
『先生は、私の代わりに泣いてくださってるんですね』
ひどくまじめな顔でセイが言うのがおかしくなってくる。
―― あなたがそれを言いますか
苦笑いを浮かべる総司に、セイは胸のあたりで両手を組んだ。屯所で見た時はひどく大人びて見えたのに、こうして今見れば、幼く、可愛らしく見える。
「本当に……。大人だったり子供だったり、あなたは忙しい人ですね」
『そうですか?』
「そうですよ。いい加減大人になったと思ったのに、またこんなに心配させて……」
まだ話し足りないと再び涙が溢れだす。
傍から見ればただ独り。セイの位牌を前に、ようやく悲しみを悲しいと言えるようになった総司は、ひっそりと呟き続けた。
翌朝、独りで目を覚ました総司は、変わらない空虚感にずきりと痛む胸を押さえた。
「……セイ?」
『なんでしょう?沖田先生』
そこにいるはずのない声は確かに総司に届く。
「おはようございます」
『おはようございます。先生。さあ、着替えて屯所にお戻りにならないと』
―― ああ。神谷さんだ……
床を出て厠に立った後、皺にならないように脱いでおいた長着と袴を身に着けたところに、女将が朝の支度を持って現れた。
「おはようございます。お目覚めにならはりましたか」
「はい。昨日は世話をかけました」
「いえいえ。なぁんにも。さ、朝のご用意をしてまいりました」
朝餉も二人分、ちゃんと用意してくれたらしい。軽く頭を下げた総司は何も言わず、膳の前に腰を下ろした。箸を手に、自然と手を合わせると朝粥を口に運ぶ。
「おいしいって……」
『おいしいですか?』
きょとん、とした顔でセイが覗き込む。
おいしいといえる誰かに傍にいて欲しい。それがセイであってほしい。
ようやく溶けた胸の内の凍えたものは、まだ冷たい湖のようだでことあるごとに、さざ波が立つ。それでも、凍り付いているよりも、セイを近くに感じられた。
「おいしいですよ。こんな朝餉は久しぶりです」
にこりと微笑んだセイが頷いた。
– 続く –