水の底の青~喜怒「哀」楽 7
〜はじめのつぶやき〜
BGM:ケツメイシ こだま
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「神谷さんらしいですね……」
ぽつりとつぶやいた総司の声を、本当に久しぶりに聞いた気がして、斉藤は全身で願った。
―― 神谷。武士だったあんたならわかるだろう。凍りついたこの男の胸の内を溶かしてやれるのはあんただけなんだ
「それから、しばらくあれは俺に付き合って、この庭を眺めてくれた」
「あ……」
“夕刻、寒くなってきたからと羽織を貸してくださった時に、偶然ついただけで……”
そうだったのか。
自分の早合点からセイを泣かせたのかと今更知ったっところでどうしようもないのに、胸が苦しくなる。
総司の顔を見ていた斉藤には揺れる総司の胸の内が伝わってきた。
―― 神谷。頼む。力を貸してくれ。この男が壊れる前に
一度でいい。セイを失った悲しみも悔しさも、凍りつかせたままではなく、爆発させる必要があった。
そんな斉藤の願いが届いたのか。
頂妙寺を出た時には、すでに肌寒くなり始めていた時刻で、間もなく夕暮れに差し掛かり始めたところで、お日様にかかって雲が動いた。
晴れた空の中で夕日にだけかかっていた雲と雲の間から夕焼けになりかけの朱色の光が差し込んでくる。
奇跡のようなきれいな空と、庭木の緑と。
部屋の中にまで入り込んでくる朱色の光がほんのりと温かく、包み込むように総司と斉藤を照らす。
「あの日と同じだ。あの時、俺はこの瞬間を神谷と見られたことを生涯の宝になると思った」
―― ああ。神谷さんだ……
総司も、こんな光景をセイと一緒に見たかった。いや、今までにも何度も降りしきる桜の花や、新しい力を与えてくれるような朝焼けや、胸が痛くなるような夕日を一緒に見たはずだった。
「……」
身動きもせずに、ただじっと光に照らされて、食い入るようにその風景を見ている総司の目から、透明な光が流れ出した。
斉藤は、黙ってそこから立ち上がると、静かに部屋を出ていく。
そんなことにも気づかないくらい、総司はその風景に捕らわれていた。
総司の胸の奥で凍り付いていたものが溶けて、あふれ出した透明な光は、次々と重なって、涙となる。
「セイ……」
喉の奥が苦しいほど詰まって、声にならない。
刻々と沈みゆくお日様が、少しずつ光をかき消していく様を目の奥にとどめたくて、総司は両手の掌を目の上に強く押し当てた。
掌の隙間から流れ出た涙は目尻を伝って、頬を濡らしていく。
セイ。
すごく、きれいな空ですよ。
『はい。きれいですね。沖田先生』
ええ。とても。もっと、こんな風景を一緒に見ていたかったです。
『私も……』
身勝手な感情を押し付けるばかりで、あなたの気持ちさえろくに聞くこともせずにいた私の我儘を許してくれたあなたと、もっと、もっと、一緒にいたかったのに……。
今の私には、あなたに詫びることさえできないなんて……。
『先生……』
総司の目の裏で、セイがこぼれるような笑みを浮かべる。
『沖田先生。先生の、我儘を聞くことができたのは私だけなんて、光栄なことをどうして怒ったりできますか?そんな嬉しいこと……。私にとっては魂に刻み込むほど、嬉しくて、嬉しくて……』
身勝手に奪ったことも、我儘ばかりぶつけて、セイの気持ちを考える余裕をなくしていたことも、セイは嬉しいというのか。
『先生。沖田先生。魂だけになっても、私は先生のお傍にいますから』
光が消えるように、セイの気配も徐々に薄くなっていく。
「う……。あぁぁ……っ!!」
―― セイ!!
詫びたいのに、共に在りたいのに、今この瞬間に、隣にいて欲しいのに。
―― あなたはここにはいないのか……
溶けだした悲しみは、果てることのない涙と声を迸らせて、総司からあふれ出した。
たった一人。誰もいない部屋の中で、総司の嗚咽だけが響く。苦しくて、苦しくて。
眼だけでなく強く顔を押さえた総司は座った姿勢から畳に倒れこんだ。
一瞬の幻を見せた夕日は、だいぶ傾いて、空を真っ赤に染め上げている。
―― 幻ではなく、今、あなたの声がききたいです。あなたの声で、許すといってください!そして、ずっと傍にいると言って私だけでなく、あなたの我儘も、たくさん、聞かせてください。今、聞きたいのに……
風の音と、総司の嗚咽だけが世界を満たしている。
日が暮れて、部屋の中が真っ暗になるまで、総司は横になって溢れるに任せた。
– 続く –