腐れたる草、蛍となる1
日差しが高くなり、温かくなったと思えば、桜が咲き、やれやれよい頃合いだと思っているのも束の間で、今日は朝から曇天に覆われていた。
「はぁ……。こんな空模様なのに暑いなんて……」
巡察もなく、隊の稽古も朝のうちに済んでいて、屯所待機の一番隊は隊部屋の中で、だらだらと腐っていた。
一人、セイだけはせっせと掃除を終わらせて、さあ次はとたすき掛けを外して、空を見上げたところだ。
どんよりとした空模様は、見ている間にも雨が降り出しそうだ。
午後は、巡察の隊は大変かもしれない。
そう思いながら、幹部棟に足を向けた。
「副長、失礼いたします」
「入れ」
じっとりした空気を少しでも流すために障子は開け放っている。部屋の前に片膝をついた小柄な姿を顔をあげた土方は、いつも以上に不機嫌そうな顔で出迎えた。
「なんだ」
「はあ。ご覧の通り、今にも雨が降りそうな空模様なので文やほかに他行の用向きがあれば早いうちにと思いまして」
はあ、と大きなため息をついた土方は手にしていた筆をおいた。
傍に置いていた文箱を取ると、ずい、とセイに向けて押し出す。
「すまんが、これは今日、頼みたい。他は、この天気だからな。手土産の用意を頼みたかったが……」
「この空模様じゃ、ってことですよね。日持ちのする落雁でも手配してきましょうか?」
「そうだな……。まあ、急ぎではないので無理にとは言わん。できればという事で頼む」
「承知しました」
文箱を手元に引き寄せたセイの目の前に、懐紙の包みがぽんと置かれる。
もう少し、渡し方があるだろう、と思うが、いつもの事なのでセイも黙ってそれを懐に入れた。
「それでは行ってまいります」
「ああ、頼んだ」
一番隊であることは代わりがないが、使い勝手のいいセイはこうして自分から用向きを引き受けに来る。
小者に頼むこともあるが、近藤や土方の使いは小者ではできないものも多いので、都合がいい。
それをわかっているから、セイも自分ができることがあればと、こうして用向きを聞きに来る。
隊部屋に戻ったセイは、羽織を手にして、風呂敷に文箱を包み込んだ。手拭いも用心に予備を袂に入れてから、屯所を出た。
いつ雨が降り出してもいいように、高下駄に傘は町を歩く人々も同じだ。
文だけでも早く出してしまいたくて足早に問屋を目指す。
昼が過ぎたところだというのに、日暮れのような暗さで人々も急ぎ足ばかりだ。
「すみません。文をお願いしたいんですが……」
「へぇ。どうぞ、こちらへ」
セイの姿をみて、町人の荷を受けているところではなく、店の中へと案内される。
油紙に包んだ文を差し出すときもあれば、文箱のままで持ち込むこともある。とはいえ、毎度のことでセイの顔も見知っている番頭は、店の中で文を受け取った。
「毎度、すみません。これは今日お願いしたいものになります」
「いえいえ、ご贔屓にありがとうございます。空模様が怪しいので油紙に包んでよろしいですかね?」
「はい。お願いします」
店で用意している油紙に、セイの目の前で包んでいく。
「じゃあ、これで」
少しだけ心づけを付けて、懐紙の上に粒を置いて、セイが店を出ると、それを待っていたように雨粒が落ちてきた。
「もう少し持ってほしかったんだけどな」
気を付けて、という番頭に見送られて、セイは傘を手に歩き出した。
雨足は、降り始めから粒が大きく、すぐに足元がぐしゃぐしゃになる。
どうせ濡れたのならと、屯所のなるべく近くの菓子鋪に向かう。
手土産にはならなくとも、近藤や土方、総司たち幹部のおやつにでもなるだろうと、歩いていると、視界の隅に映った何かに足を止めた。
「……?」
菓子鋪の少し手前の細い路地の軒下に、ひっそりとたたずんで動かない姿。
小さな菅笠をかぶってはいるようだが、その姿からしてどうやら旅の僧のようだ。
この雨で足止めをされたのだろう、と思ったが、声を掛けるのもどうかと思って、懐に手を入れて銀粒を握った。
托鉢しているならばとそっと近づいていくと、セイに気付いたのか僧が顔をあげたように見えた。
「……えっ」
薄暗いだけにどのような顔をしていたのかわかる前に、僧侶の姿がふらりと崩れ落ちた。
そのまま駆け寄ると、かろうじて店の塀に寄りかかってはいたが、具合が悪いようだ。
「あの!旅のお方とお見受けしますが、どうされました?今宵の宿はどちらに」
「……ぁ」
「もし!」
小さなかすれた声が聞こえたが、聞き取るより先に、ずるっと崩れ落ちる姿に反射的に手を伸ばす。
ぐっしょりと濡れた体は、思いのほか鍛えているような印象で、菅笠の隙間を覗き込んだセイは、目を細めてから、もう一度壁に寄りかからせて手を引く。
近くの店に声をかけてもよいが、男の姿からして一瞬迷った者の姿からして一瞬迷った後、振り返って、傘をさしかけると、雨に濡れるのも構わずに走りした。