記憶鮮明 16

〜はじめの一言〜
がしがしがしがし。

BGM:SMAP not alone
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離れの外から心張棒を外したセイは、静かだがはっきりと声をかけた。

「おはようございます」

一呼吸待ってから引き戸を開けたセイは、いつものように中に入った。内側の戸をわずかに開けてもう一度声をかける。

「おはようございます、雅様」

応じる声がないので、心配になったセイは少しだけ開けていた襖をすっと開いて中に入る。
頭を下げて部屋の中に入ると、すでに雅は起きだしていた。一人ですでに着物を着換えて雨戸も障子も開け放ったところで、雅が外を眺めて座っている。

「雅様」
「おはよう。清三郎、よく眠れましたか?」
「はい。雅様はお休みになれませんでしたか?」
「いいえ。もう年寄りになると朝が早いのですよ」

振り返らずに答える雅の後姿をみながら、それでも普通の声が返ってきたことにセイはほっとした。畳まれた布団を押し入れにしまって、衣紋にかけられた夜着を小部屋へと移動させた。

手拭もきれいに洗われた後があったので、身支度のすべてはもう終わっているように思えた。雅の傍に近づいたセイは、静かにその後ろに座る。

「ねえ。清三郎」
「はい」
「あなた、人を手にかけたことはある?」

唐突な、しかも朝一番の話題にしては剣呑な話に一瞬眉を顰めたセイは、少し考えてから素直に答えた。

「……はい」
「そう。でも、あまり数は多くないわね。ほかの二人とは違う」

そんなことがわかるのかと、セイは背後から雅の横顔を見た。
雅の横顔の向こうに朝焼けの空が見える。

「朝焼けは好き?」
「は?」

すうっと細められた雅の顔から笑みが引いた。あまりに唐突な話題の転換にセイはついていけない。

「朝焼けは……」

―― 血の色に似ているわね

セイが問い返す前に、くるりと振り返った雅がにっこりと微笑んだ。先ほどの剣呑な問いかけなどまるでなかったかのような笑顔にセイは面食らってしまう。

「さ、今日の支度も頼んでありますからね。行ってらっしゃい?」

一気に渋面になったセイは黙って頭を下げると母屋へ向かった。
すでに母屋では店の者が起きだしていて、セイと顔を合わせた女中が心得顔でセイを奥へと案内した。女将が現れてたとう紙に包まれた着物を出してきた。

「朝早くからご苦労様です。今日はこちらのお着物を着るようにとご隠居様がおっしゃってますので、お支度をお手伝いさせていただきます。殿方にはむずかしゅうございましょう?」
「ということはまた女子の着物ですか……」

もしかして、という一縷の望みも玉砕したセイは、肩を落としてたとう紙を開いた。くすくすと笑っている女将に慰められて渋々頷く。

「面倒をかけてすみません」
「いいえ、こんなかわいらしいお武家様のお支度なんて、光栄ですわ」

たとう紙だけではなく乱れ箱も運んできており、小物から襦袢まですべてそろっている。

「あの、着物だけなら一人で着換えられますから」
「そうでございますか。ではお髪を先に整えさせていただきましょうか」

女将が持ってきた髪箱には、昨夜セイが借りていた髢もちゃんと離れから下げられてきていた。
女将が元結を切ると、髪油をつけて鬢を作り始めた。足し髪を使って町娘の髪へと結い上げられると、女将が思わず微笑んだ。

「殿方はんなのに、ようお似合いです」
「……どうも」
「お着替えが終わられましたら、お着物はどうぞそのままに。こちらで離れへと戻しておきますから」

微妙な顔で頷いたセイは女将が去るのを待って用意された着物を身に着けた。
着替えを終えると、急いで離れの部屋へと向かう。そこには昨日と同じように若旦那風の拵えの斉藤と、今度は用心棒風に長着を着崩した総司がいた。

「まあまあ!清三郎ったら、昨日よりももっと若くて可愛らしく見えてよ?」
「……恐れ入ります」

セイは部屋に入ると斉藤の傍に座って、軽く頭を下げた。総司は用心棒らしく、部屋の入口に近いところで刀を抱えて片膝を抱えている。

「よろしく頼む」
「よろしくお願いします」

斉藤と軽く言葉を交わすと、頃合いを図ったように朝餉の膳が運ばれてきた。

 

 

朝餉を済ませると、今日は北野天満宮まで足を延ばすことになった。もちろん、そこまで雅を歩かせることはできない。駕籠を手配して、斉藤とセイは一緒に歩き、その背後から総司が用心棒としてついていくことになった。

斉藤の半歩後ろを歩きながら、セイは斉藤に手を引かれていた。
差し出された手に疑いなく手を伸ばしたものの、いつも総司の手をつかんでいるのとは違う感覚に戸惑ってしまう。

―― なんだかいつもの兄上とは違うような……

「疲れはしないか」
「あ、はい」

時折振り返って自然にセイを気遣う姿が、優しくてセイは何度目かにくすっと笑った。

「何かおかしいか?」
「いえ、本当に旦那様みたいだなと思って」

言った本人は他愛なく呟いたことだったが、斉藤にとっては一瞬、くらりとしてしまう。セイのかわいらしい姿だけでも平静を装うのに恐ろしいくらいの気力を振り絞っているのに、その本人からこんな台詞を言われてはたまらない。

―― 本当に嫁にできるならいいのにな

なんとか動揺を抑え込んだのは、振り返った先に、セイの後姿をさりげなく見つめている男の視線が、今までとは違う色に見えたからだ。
今までも、悋気と思しき行動をとってはいたが、どうみても自覚のない野暮天の行動でしかなかったが、今は違って見える。ちらりと視線をぶつけた斉藤と目があった総司はさりげなく視線を外した。

―― やっぱりおかしい。私は本当にどうかしている

斉藤にちらりと視線を向けられた総司は視線を外しながらそう考えていた。娘らしい姿が昨日よりもさらに総司を引き寄せた。朝、清三郎の姿では動揺しなかったはずなのに、今はセイが守るべき娘に見える。

その姿が特命のためのものであり、任務ゆえの演技だともわかっているはずなのに、頭のどこかではあれがセイの本当の姿だと思ってしまう。そして、そのセイが斉藤の隣を手を引かれて歩いていることがこんなにも不愉快だと思いもしなかった。

自分自身が斉藤に悋気を起こしているとは夢にも思わない総司はなるべく二人の姿を見ないようにしながら駕籠の周囲へと気を配る。
いくつか不穏な気配がついてくることは、松月を出てすぐに気づいていたが、どうやら今日は仕掛ける気があるらしい。

総司の感じた気配には、斉藤自身も気が付いていた。さりげなく手を強く引いてセイを近づけると何事かを囁いた。

 

– 続き –