迷い路 11

〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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桜香の元の名はお香といった。
貧乏御家人の娘で、父は三十俵二人扶持という、この時代に最も多い侍の端くれのさらに末端を占める大多数の一人だった。

京の都に住んではいても、生粋の京育ちではない。もともとは江戸にいたのだが、お香が物心つくかどうかの頃に京へやってきた。
その隣に住んでいたのが喜三郎だった。年はお香よりも六つも上だったが兄というより、同年のように二人は仲がよかった。

早くに母を亡くし、年老いた下男と一日中家にいても子供にとっては面白くも楽しくもない。手習いや、裁縫は器用に一通りこなしてしまうお香は、朝、父を送り出すと手早く手習いと家の片づけを済ませてしまい、あとは父が帰る夕方までが自由な時間だった。

「喜三郎ー!」

大きな声で呼びながら転がり込んできたお香の目の前で障子は大きく開いた。

「早いなぁ。お香。俺まだ稽古が終わってないんだ」
「えぇ~。剣術の稽古は長いんだもん。それより今日はまたあそこにいかない?」

喜三郎の家は、体の弱い母が寝たきりでいたが、お香のところよりははるかに武士の子として厳しく育てられていた。母の代わりにお婆様、と喜三郎が呼ぶ婆が家の中を切り回していたのだ。

「喜三郎殿。まだ手習いの最中でございますぞ。またお香の相手でございますか」
「うえ。お婆様、お香のほうがなんでも器用なんだよ。俺がのろまだからさ」

お香が邪魔しに来たのだとなると、すぐにお婆様はお香を追い出そうとすると思って、喜三郎は急いで縁側から部屋へと飛び込んだ。とうにばれてはいたが、それでもお婆様に喜三郎が言い返している。
開いたままの障子の向こうからお香が顔を覗かせていた。

「本当にしようのない。お香。お前も少しは娘らしくしたらどうなのです。そのようなことではお父上が笑われてしまいますよ?」
「娘らしくってどういうことを言うのかわからないわ」

お香は口うるさくて、何かにつけて喜三郎と遊ぶことを邪魔するこのお婆様が大の苦手だった。だからこそ、十になるかならないかの娘にしては生意気な口をきいて、余計にいつも叱られている。

「やれ、隣の娘御は目上の者に口のきき方も知らないようでは先がいよいよ不安。そのような生意気な口をたたかずにこちらへおいで」

さて、面倒な相手に捕まったと思いながら、お香はしぶしぶお婆様の言うとおりに縁側から廊下へと草履を脱いで上がった。奥の部屋のほうへとあとをついて行く。

「私が口をだす筋合いじゃないというかもしれませんが、お前様も一応は武家の娘。大きゅうなってから人様に後ろ指さされるような真似だけは、この婆がさせませぬ」

ぶつぶつと人の道を説きながら、喜三郎の母が休んでいる部屋の隣に入ると、反物とお針の道具がそろっていた。

「この婆が教えてさしあげますから寝間着の一つも縫えるようにならんと年頃になってもお嫁の貰い手もありませぬ」

えー、とうんざりした顔になったお香だったが、お婆様の容赦ない仕込みで、数日のうちには父親の寝間着を縫い上げることができた。

病がちな喜三郎の母にかわって御婆様は喜三郎もお香も、どちらの家など関わりなしに育て上げるつもりだった。共に、貧しい御家人の家である。互いに助け合って何が悪いと腹を据えていた。

父親同士はとりたてて仲がいいようには見えなかったが、互いに暇なときは家を訪ねあって、日がな一日碁盤を前に向き合っている。何か親しげな話をするでもなく、ぽつり、ぽつりと何事かを呟いては、黙って頷く。
子供たちは、その姿に何が面白くて、果たしてこの二人は仲がいいのか悪いのかさえわからなかった。

「喜三郎ーっ」

まだ十の娘ではあったが、お香は喜三郎に何かをねだるときには、いつも可愛らしく、少しばかり高い声で甘えるのが常だった。
稽古を終えて、裏の井戸端で水を浴びていた喜三郎は、うっすらと頬を染めて微笑むお香にぎくりとして背を向ける。濡れた手拭いで体を拭うと、手早く稽古着に袖を通す。

「今しがた稽古が終わったばかりで、着替えない事にはどこにも出かけられないよ」

十六にもなれば、一人前の男として扱われることもある。まだまだ幼いお香にはわからなくても時には、世の中の事や、自分とお香の置かれた立場など、色々と思うところはあった。

いずれ、父の後を継ぐことは苦ではない。

そんなものだと思いながら育ってきたからだ。なにか特別、出世をすることもなく、こうして一生を暮していくのだと思ってはいたが、そんな喜三郎にも淡い夢はあった。

「ん。そのくらい見たらうちにもわかるわ。ねぇ。着替えるのを待つから、一緒に出掛けよう?」
「どこへ?」
「いつものとこ」

またいつものことと思っていても、もうあといくらも残されていない自由な身の上を思えば、喜三郎に断ることはできなかった。
辺りの始末をつけると、少し待つように言って部屋へと入って行く。稽古着を着替え、若者らしい色合いのものを選ぶと、刀を腰にさす。奥の部屋にいる母にわざわざ声をかけることはしない。

いくばくかの金を懐に入れると、お婆様の姿を探した。

「お婆様。お香を連れて少しでてくる」
「……おはやくお戻りなさいまし」

にこりともせずにそう答えた御婆様は喜三郎の稽古着を片付けるために、部屋へと向かうところだった。今にして思えば、お婆様には若い喜三郎の胸の内もお香の気性もよくよく見えていたに違いない。

「待たせたな」
「御婆様は?」
「はよう戻れとさ」

そういうと、喜三郎はお香を連れて歩き出した。
いつもお香がねだるのは祇園のあたりへでて、華やいだ女たちを見ながら時には、喜三郎に甘味でも食べさせてもらう事だった。運が良ければ、美しい太夫や天神の姿を見かけることができる。
それが、お香には心躍る瞬間だった。

「今日は、誰かみかけるかしらね。喜三郎はどう思う?」
「さあな。それよりも、帰りに白玉でも食べさせてやるよ」

喜三郎の言葉にますますお香の足どりは軽くなった。緋色の格子の向こうが華やかな町でその近くの甘味処に入ると、通りが見える場所に席を取った。

「お前も変わった娘だな。お香」
「そう?」
「ああ。普通の娘ならいくら華やかでも花街に女に憧れるなんてまずないだろう?」

もっと幼い娘ならまだしもお香にも花街がどのような場所かわからないわけではない。華やかに見えてその実は苦界だと知っていながら何に憧れるのかと不思議なのだ。

「だって、あそこでなら女子でも己の力で上っていくことができるではないの」

貧乏御家人の家に生まれたからこそ、己ではどうにもならない運命を変えられる場所に見えた。だからこそ、お香は憧れたのだ。
いつか、自分の力で世に出たいと願うのは、男だけではない。女子にもその夢はあるのだ。

「もし、私が太夫になったら、喜三郎は来てくれる?」
「それは……」

白玉の器を手にした喜三郎は何かを言いかけて、苦い顔になると、答えずに箸を動かした。無骨な喜三郎だけに、通うと言うことが出来ない自分が情けなかった。

– つづく –