迷い路 16
〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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傘をもって出かけたのは正解だったらしい。土方と総司が屯所を出て、まだ揚屋につく前に小雨が降りだして、赤い格子に囲まれた道に足を踏み入れる頃には、弱い風に流されるように、さぁっと霧雨があたりを包み込んでいた。
夕餉前に出たはずだが、雨が降るほどだからすでにあたりは暗くなっている。
いつもの部屋を頼むと、刀を預けてすぐに部屋に通される。今日も同じように夕餉の膳を頼むと、さて、と盃に手を伸ばした。総司が酌をするとそれを土方が受ける。
「結局、あれはどうなんだ?」
あれといっても、仕事はたくさんあってどれを指しているのか図りにくいところだが、わざわざ屯所を出てする話と言えばこれだろう。
あたりをつけた総司は、難しい顔で口を開いた。
「芳しくないですね。このところは飲みに出ることも控えているみたいなので、ますます様子を探りにくいんです」
柴田の様子を監察の目も総司の目も追いかけてはいるのだが、それを察したのか、急に柴田が飲みあることはぱったりとなくなった。
隊部屋では、酒代はつきたのだと笑っているようだが、今までだってどこからどうやってというくらい、酒代は足りなかったはずだ。
「結局、妓に貢いでるってのはないのか?」
「どうせこれから呼んでるんでしょうけど、桜香さんはもともと前借金がないそうなので、稼いだ金をすべて稽古事や、着物なんかにつぎ込んでいるみたいですよ。紅糸さんにしても旦那衆のいない方じゃありませんし」
「ほう。まあ、そりゃそうだな」
どちらにせよ、よくある話ではあるが、やはり桜香のほうが珍しく思える。
そこにある理由を土方も総司も知りはしない。
桜香、いや、お香が十四、柴田が二十の頃のことだった。
家督を継いでいた喜三郎は父の後をついで、お役に付いてはいたが、いつ無役になってもおかしくはなかった。喜三郎の父は亡くなっていたために、お香の父はいずれ喜三郎にお香をとそれだけを夢に見ていたといえる。何一つ良い方向へ進む何かを見いだせない時代に、せめて娘の幸せになる姿だけを願うことしかできなかったのだ。
そんなある日。
喜三郎は先に家に戻っていた。その日に限って、喜三郎の仕事もお香の父が引き受けるから先に帰れと言われ、俸給もはかばかしくないところに長居は無用と、さっさと戻ってきたのだ。
まだ明るかったために、庭先で剣術の稽古に励んでいた喜三郎がそろそろ暗くなるということで井戸端で汗を流していると、隣家のお香の家から夕餉の匂いが漂ってきた。
俸禄から言えば、二人は下男や下女を置かねばならないところだが、お婆様が亡くなった後は、喜三郎ひとりの気ままな暮らしをしていたから、男一人で作る夕餉などたかが知れている。飯と、干物に酒がいいところで、たまにお香が差し入れてくれるお菜が膳をにぎやかにするくらいのものだ。
「ねぇ。たまには一緒にいただきましょうよ。父上もまだお戻りではないのだし」
お香が折に触れてそう誘いにきても、喜三郎が頷くことはぐんと減っていた。曖昧に笑ってたまに、菓子の一ひねりでもお香に渡すと、さっさと家の中に入っていく。
それでも勝手知ったるとお香が上がりこんでくると、どこかへ逃げ出してしまうのだった。
すっかり汗をぬぐった喜三郎が家に入ると、大きな白鳥から湯飲みへそのまま酒を注いだ。
これ以上、上達する見込みもないが、横好きというやつで喜三郎は剣術が好きだった。剣を振るっているときは、何も考えずに済んだからだ。
こうして、好きな剣術にあけくれて、それが終われば酒と少しの飯でいい。お香を嫁になどありえないと思っていた。
台所の片隅で夕餉の支度というほどでもない支度をしながら酒を飲んでいるところにがたっと大きな音がして、裏口からお香の父親がいつになくあわてた様子で駆け込んできた。
「親父殿!どうされた?」
父が亡くなってからこの気の弱い男のことを父代わりと思って、喜三郎はそう呼んでいた。お香の父は明らかに何事かあった風情で、人目をはばかるようにすぐ後ろ手に戸を閉めた。
「喜三郎。これまでだ。お香を連れて、この金を持ってどこぞへ逃げろ。そして二人で仲よう暮らせ」
「何を言ってる?!親父殿。この金って……!」
袱紗でもなんでもなく、ただ手拭いに包み込まれたそれは喜三郎の手に乗せられた瞬間、ずしりという重さでその形から切り餅一つだとわかる。長屋住まいの町人が一家族、五両もあれば一年は遊んで暮らせるというのに、その額は到底、喜三郎たちがどれだけ働いても手にできる額ではなかった。
「何をしたんだ!これはどうして?!」
「いいから!!すぐにここを出る支度をするんだ。このまま私もお前もこの暮らしがいつまでも長く続くとは思っていなかったはずだ」
有無を言わさぬ口調で喜三郎の腕を掴むと、普段からは想像もつかないような強い力で押される。
何かあったのは確かだったが、それを追及することもお香の父を止めることもできない何かが喜三郎を動かした。
それだけ、力のある金高だったのだ。
押し出されるままに、座敷に上がった喜三郎は、自身のなけなしの全財産と、父母の位牌、そして刀を手にして、台所に駆け戻った。
もうすでにそこにはお香の父親の姿はなく、土間から上がる床の上に先ほどの金包みがそのまま置かれている。
飛びつくようにそれを懐に隠した喜三郎が顔を上げるのとほぼ、同時にもう一度裏口が開いて、今度はお香がそこに立っていた。
「喜三郎!父上が!」
「わかっている。親父殿はどうした?」
「時間を稼ぐといって……」
その間に喜三郎と共に逃げろと、お香の母の形見の櫛だけをお香に持たせると表からではなく、庭先を突っ切るようこちらの裏手へとお香を押しやったのだった。
自分は表口にたって、何者かは知れないが、追っ手を引き付けるつもりなのだろう。
どのみち、ここで残っていても、起こってしまったことの取り返しがつくものではない。そう思った喜三郎はお香の手をつかむと、さらに隣の家の裏手から細い通り庭を走り抜けて逃げた。
お香にも聞いても無駄だということはわかっていたのだろう。逃げる間、余計なことは何も聞かずに喜三郎について逃げるだけ逃げた。お香と喜三郎の家は京のはずれにあったのだが、その真逆の方向へと向かい、市中のはずれになる手前に宿をとった。
小さな堅気の宿屋で、いわくありげな二人には見えただろうが、喜三郎の真面目そうな姿がきいたのだろう。心付けをはずむとすんなりと泊まることができた。
一部屋にようやく落ち着いた二人は、向かい合って不安に満ちた顔を見合わせた。
「お香。何があったかは俺にも問うな。親父殿は俺にも話されなかった。ただお前を連れて逃げろとだけな」
こくりとうなずいたお香は、自分たちがどうにもならない事態に巻き込まれているのを感じて、震えていた。遅い泊りだったが、かろうじて飯にはありつくことができて、順番に風呂を使うと、いくらかは落ち着いて先を考えられるようになっていく。
先に風呂をつかって、あとにお香を行かせた喜三郎は、とにかく懐に押し込んできたものをきちんと整え直した。こうした宿屋には、旅の支度に十分なものが置いてあることが多い。だが、それも今更と、家を出る間際に袖に押し込んできた、大きめの風呂敷に荷物をまとめなおした。それを背に背負えばそれなりに見える。
金はそれぞれ、胴巻きと荷物の中のあちこちに小分けにして隠すことにした。盗まれて一巻の終わりにでもなったら命がけで金を用意して逃がしたお香の父に申し訳が立たないと思ったのだ。
湯上りで浴衣を借り受けたお香が部屋に戻ってくると、お香もいくらか落ち着いて見えた。
「喜三郎……。これからどうするの」
「とにかく、どこかに住むところを見つける。そして、お前が困らないように」
「喜三郎はどうするの?お役目はもう無理だとしても、あんなに好きだった剣術は?」
そんなものはこの際、どうでもいい。ただ、お香の身が立つようにしてやることが、お香と金を預けられた責任だと思えた。濡れた手拭いを窓際にかけたお香は、二つ並べられた床を見て、喜三郎を振り返った。
– 続く –