迷い路 17
〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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「父上は……」
「何も言わなくていい。お香のことは俺が守る。何も気にせず、先に休め」
こんな時だったが、お香を安心させようと喜三郎は微笑んでみせた。
自分の身の上はもともと、たいして先が望めるわけではない。それよりも、お香を幸せにするためにこれだけの金があれば、よい縁も望めるかもしれない。
とにかく、一つ一つことを運ぶしかない。
どうしても眠れないというお香に、並んで横になった喜三郎は、行燈に長着をかけて薄暗くなった部屋の中で、目を見開いていた。
それにしても、お香の父は、いったい何をしたのだろう。お役目ではこれだけの金高を扱うことはない。あとは、不正な金ということになるが、それにしても、剣の腕もそれほどではないお香の父に辻斬りのような真似ができるとも思えぬ。
どうやって金を作ったのかはわからないが、あとを追いかけられるような何かをして、手に入れた金ではある。
ふと気が付けば、隣から急な出来事で疲れ切ったお香の寝息が聞こえてくる。
こんな風に嵐は急にやってくるのだった。
「いやぁ、また呼んでくれはってありがとうございます」
華やかな絹が部屋の中に広がって、桜香と紅糸が土方と総司の間に座った。お酌をする二人ともがそれぞれにこの座敷を心待ちにしていた。
内心では迷っていたようだったが、結局土方は今日も桜香を連れて部屋へと移っていった。
「すみません。紅糸さん」
当然のように、何も言わず総司を部屋へと誘った紅糸は部屋へ入ると、黙って総司の着物を預かった。
「どうぞ。お座りやして」
小さな小机の脇に腰を下ろした総司の傍に上着を脱いだ紅糸が腰を下ろした。そっとお銚子を手にした紅糸に、怪訝な顔をした総司は、仕方なく盃を手にした。
「紅糸さん」
「沖田先生。女子というものはまことに身勝手なものでございます」
急に紅糸が何を言い出すのかと思った総司は、紅糸の憂いを含んだ横顔を眺めた。
「どうかしたんですか?紅糸さん」
思わず総司がそう問いかけるほど、紅糸の横顔には何か深い屈託が見える。だが、それ以上は何も言わずに、黙って総司が盃をあけるまでじっと眺めていた。
しばらく、間があいて紅糸はお銚子を膳に置くと、総司に向かって抱きついてきた。
「べっ、紅糸さん?!」
「一生のお願いどす。愚かな妓の願いやと思って、今だけ。後生ですからどうか……」
―― 抱いておくれやす
女の力とは思えない力で総司にすがりついた紅糸は、盃を手にしたまま、真っ赤になった総司をそのまま押し倒した。目にいっぱいの涙を浮かべた紅糸は、今、どうしても総司の腕がほしかったのだ。
「だ、駄目ですっ!紅糸さん!?」
「駄目でもなんでも……。後生ですから、どうかっ!」
「んっ!!」
花街の女たちは、客に唇を許さない。本命の男にだけは己から望むのだというが、紅糸は自分から総司の唇に己を寄せた。涙にぬれた頬が冷たく総司の頬を濡らす。
紅糸の柔らかな唇がやわやわと総司の唇をなぞり、慌てた唇の隙間から生暖かい舌が滑り込んでくる。総司の舌を誘うように滑り込んできた舌に驚いた総司は、渾身の力を込めて紅糸を押しのけた。
「何を……っ!」
口元を押さえた総司がはっと我に返ると、突き飛ばされた紅糸が畳の上に倒れこんでいた。
「す、すみません!つい!」
震える紅糸の肩に手をそえた総司の手を紅糸は顔も上げずに振り払った。小さくすすり泣く紅糸は、そのまま畳に伏してしまった。
どうしていいのかわからなくなった総司は、おろおろと何か声をかける術をと思ったが、振り払われた手を思うと、どうしてもできない。乱れ箱に入っていた朱色の襦袢を取り上げると、それを紅糸にそっと着せかけた。
「……どうして」
「え?……」
「どうして!」
どうして駄目なのか。
どうして土方は自分を振り向かないのか。
どうして自分はこんなにも汚れているのか。
紅糸の声にならない声が総司には聞こえた気がした。紅糸の傍にそっと腰を下ろした総司は、低く呟いた。
「紅糸さんは汚れてなどいませんよ」
「……いいえ」
「あなたはこんなにもきれいじゃありませんか」
「いいえ!!」
―― 違う!!私は、誰よりも汚れている!
声を高く、桜香と土方がいる部屋へと走りこんで叫びたかった。どうせ、手に入らないのなら、いっそ、土方の手で殺されたい。
回を重ねるごとに心だけが苦しくなって、目の前にいるのが総司であることが余計に紅糸を追い詰めていた。
「いいえ……。桜香はんは近いうちに、うちを抜いて太夫上りしはります。己の未熟を嘆くよりも、今のうちにはあの人を憎んでしまう。憎いからこそ……。うちは、取り返しのつかない闇に落ちたんどす」
「闇……?紅糸さん、何を……」
再び、畳に伏して泣き出した紅糸に困惑しきった総司は、途方に暮れながらも、とにかく、紅糸が落ち着かないことには話を聞くこともできない。
泣き続ける紅糸を前に、セイの時とは違って、どう慰めればいいかもわからない総司は、ただ隣に座っているしかできなかった。
今夜はすぐそばの部屋ではなかった土方は、離れた部屋から聞こえてくるすすり泣きの声に、ふっと笑みを浮かべた。
―― 今夜は、あいつにとっても長い夜になりそうだな
「土方はん」
「ああ。お前も飲むか」
「あい」
土方の盃を受けた桜香は、うっとりとした顔で盃を手にすると、土方の酌を受けて揺らめく酒をその喉に流し込んだ。
– 続く –