迷い路 32

〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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「もう副長はんはお忘れやと思いますけど……、もうどれくらい前になりますやろか」

紅糸が天神になってすぐの頃だからもう一年以上前になるだろうか。
まだ年若い同じ店の妓の水揚げがあった。相方を探していた店の女将に、たまたま立ち寄った土方が頼み込まれた。

「先の期待できる子やさかい、ええ方にお願いできればと思うてます」
「それが俺か?まさかだろう」

ふっと冷やかに笑った土方は腕を組んだまま、女将の部屋の入り口に寄り掛かった。女将が丁寧に頭を下げているというのに、土方は立ったままという不作法ではあったが、女将の方もどうしても土方に頼んでおきたかったのだ。

京の町でも嫌われ者の新撰組ではあったが、金だけは使う。そして、幕府方のなかでもどこかの家一つではなく、あちこちにつながりを持つために、顔が広いといえば広い。
泥水を飲むつもりで頭を下げたのだった。

「そんなことは……」

なんとか土方にうんと言わせるために頭を下げていた女将と土方のやり取りを、紅糸は廊下でひっそりと聞いていた。
立ち聞きするつもりなどはなかったが、心細さに震えて泣く娘が心配で様子を伺っていたのだ。

「どうぞ、お願いいたします。土方副長はん」
「無理だな」
「そこをなんとか」

繰り返し頭を下げる女将に土方はくるっと背を向けると、廊下に立っていた紅糸の手を引っ張った。
まさか、立ち聞きしていたことを知られていたとは思っていなかった、紅糸が驚いている間に、強引に抱き寄せた土方は腕に抱いた紅糸に頬を寄せながらにやりと笑った。

「俺の相手はこのくらいの妓じゃないと無理だ。俺じゃなくてもほかにも大店の旦那衆がいるだろ?悪いな」

驚く紅糸が女将と土方の顔を見比べているうちに、土方は紅糸を抱えたまま廊下に出てしまった。

「あ、あの!」

土方の手を振り切ろうとした紅糸からあっさりと手を離した土方は両手を広げて見せた。

「悪かったな。女将があんまり粘るんでな。つい断る口実につかっちまった」
「口実て……」
「俺みたいな男が水揚げの相方なんかしたら、その妓の後々に味噌をつけちまうだろ?」

そういうと、紅糸の脇をすり抜けて、居続けをしていた馴染みの妓の部屋へと上がっていってしまう。

「たった……それだけ?」

驚く総司に、紅糸は目を伏せて頷いた。
人にとってはたったそれだけのことだろうが、紅糸にとってはほんの一瞬、抱き寄せられた腕の中で、恋に落ちたのだ。

「あの子の将来には自分よりももっといい旦那がいるはずだといってくれはった。たかが妓、それも、見ず知らずの子の将来を気遣ってくださった」

そんな一瞬のこと、確かに土方なら忘れてしまっているだろう。だが、紅糸の胸に灯った炎は小さく消えずに残った。
土方の馴染みの女は、年かさでもあり、店を落籍させられた後に、土方とは切れたらしい。一人でも身が立つように店を持たされたと聞いた。

最後まで自分にかかわった女の面倒を見る土方にますます惹かれてしまったのだ。

「人が聞いたら笑うかもしれまへん。それでもええんどす。うちは。あのお人も、同じにおいがした……」

自分と同じ、叶わない想いを胸に抱いて、ほんの一目でもと願う切なさを感じたから、紅糸は柴田に桜香の事を伝え続けた。

総司は、小さく頭を振った。このままでは、迷いそうになる。

「それで……、どうしてその相手に、新撰組の柴田という者にそんな頼みごとをしたんですか?」
「どうして……。どうしてやろなぁ……」

たまたま新選組の隊士だったから。

きっとそんな理由ではないだろうが、訳を聞いたとしても今更だという気がする。
桜香とならば理解もできたが、どうしてもつながらなかった紅糸と柴田のつながりが分かった今、残るは柴田を押さえる事だけだ。

 

巡察を終えて戻ってきた十番隊を見かけたセイは、大階段の方へと急いで向かった。

「原田先生。お帰りなさいませ」
「おう。神谷。俺が恋しくて出迎えか?」

むちゅーっと唇を尖らせて抱きついてこようとした原田を両手で阻止しながら、セイは汗臭い男達の方へ顔を向けた。

「んなわけないでしょうが!」

ぐぐぐ、と両腕を突っ張って逃げようとするセイと原田のやり取りにどっと笑いが起こる。
セイは、隊士達の間に、柴田の顔を見つけた。ほとんどの隊士達は、セイと原田の方を見て笑っていたが、一人、柴田だけは笑っているのに違う方向を向いている。

視界の隅で柴田の動きを追いかけながら、原田とあたりさわりのない話をしていたセイは、ふと原田はどこまで知っているのだろう、と気になった。
それぞれ、笠をとって足袋も脱ぎながら次々と階段に上がる隊士達の中に紛れる様に柴田が離れていく。

その場で掴まえて話を聞きたかったがそうもいかない。残念な気がしたが視線だけで追いかけていく。セイの視線の動きに気付いた原田が、大階段を振り返った。

「あ?なんかあんのか?」
「い、いえ。別に!」
「でも、今……」
「あ~!ああ、何でもないんですっ。そろそろ行かなくちゃなって思っただけです!」

慌てて、大きく両手を上げたセイは、何でもないと言って原田を振り切ると隊部屋の方へ向かった。
足早に後を追いかける様に隊部屋に向かったセイは、十番隊の隊部屋に入る寸前、セイの方を振り返った柴田を見た。

―― やっぱり、昨夜の男に似てる……

背丈や肩のあたりを見てそう思うと、いてもたってもいられなくなって、セイは柴田に駆け寄った。

「柴田さん!」

手にしていた刀をちょうど持ち上げた瞬間、柴田の右腕の袖口から包帯が覗いた。

「それ……!柴田さん、その腕はどうされたんですか?」
「神谷。ああ。これかぁ?これはさぁ……」

ひた。セイの目がもうすでに疑いではなく確信を持って見つめていた。

―― 早いか遅いかの違いだよな

にっと笑った柴田が、一歩、セイの方へと踏み出してくる。巡察明けで、まだ羽織も着たままの柴田は、手にしていた刀を持ち上げた。
目の前を黒いものが横切った、と思ったセイは柴田に押されるようにしてくるりと向きを変える。

「!」
「神谷ぁ。俺は、まだ死ぬつもりはないんだよなぁ」

びくっと背中に押し当てられたものにセイが動くに動けなくなる。
鯉口をきった刀をセイの背中に押し上てて腕を掴んだ柴田は、そのまま来た道を戻る様に大階段へとセイを連れて歩き出した。

 

– 続く –