迷い路 9

〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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部屋に上がった後も恐縮する総司を紅糸は不思議な思いで見ていた。
この街で生きるようになって、女の嘘も涙も心底、身につけたはずなのに、この、巷では鬼と言われる男にだけは、初めから妙に本当のことを口にしてしまう。

花代を出してくれている相手にほかの男が恋しいなどおかしな話だが、土方に憧れていることも素直に口にしてしまった。
そんな真似をしたのは後にも先にもこれきりの事である。

「決して紅糸さんがどうかしたわけじゃありませんから。ああ、すみません。どうしてこう気の利いたことも言えないのか……」

隣室には憧れの人である土方がほかの妓とともにいる。時折、話の中身はわからなくてもかすかに声が聞こえてくる。
胸がざわつきはするが今はそれよりも、この不思議な男の方が紅糸は気になった。
決して自分が悪いわけでもないのに、申し訳なさそうに大きな体をちぢこませていることも、気の利いた慰めひとつ口にできないと、おろおろしている姿も噂に聞く人斬り鬼の姿とはかけ離れていたからだ。

噂が、どこまでのものなのかは嘘の世界に生きているからこそ、薄紙の一枚程度でしかないが、それにしてもこれほど印象が違うとは思わなかった。

運ばれてきた膳の上のお銚子を手にすると、総司に向かって少しだけ傾けて見せた。

「どうぞ。せめて御酒くらいは召し上がっていただきまへんと、うちのほうこそ、申し訳のうて……」

今日は終いまでの花代がすでに支払われている。盃を取り上げた総司は、それになみなみと酒を受けた。
口から迎えに行って、すべてを飲み干すことなく、最後の一口だけ残した総司を見ながら、部屋に入った時に預かった羽織を紅糸は丁寧に畳む。
憧れてやまないのは土方なのだが、この男の雰囲気に不思議と居心地の良さを感じていた。

「今日はあの人もゆっくりするつもりみたいなので、私も少し休ませてもらおうかな。横になりますから時間になったら起こしてもらえます?」
「へぇ。もちろん。どうぞごゆっくり」
「ありがとう。あなたも気にせず休んでくださいね」

小花の時、同様に袴を脱いで長着姿になった総司は、床の中に入りもせずに布団の上に横になるとあっという間に寝息をたてはじめた。

呆れた顔でそれを見ていた紅糸はふっと姉のような顔で笑った。総司の方がいくつも歳は上なのだろうが、悪戯好きの弟の面倒でも見ている気になってくる。

「ほんに、沖田先生は、変わったお人やわ」

縦縞の袴の皺が少しでもなくなる様にと、丁寧に手のひらで伸ばしながら紅糸はゆっくりと時間をかけて袴を畳んだ。

倒れ込んだと同時に寝息をたてはじめた総司だったが、眠っているのは体だけで意識の方ははっきりと起きていた。
特技のようなものだが、隊部屋にいる夜半でもあまり深く眠り込むことは少ない。どこかで意識は起きていて、何事かあればすぐに跳ね起きる習性が身についている。

聞くともなしに、総司の意識は隣の部屋へと向けられていた。

「うち、嬉しおす」
「俺には今、馴染はないからな」
「ふふ。是非ともうちのお馴染はんになっとくれやす」

羽織を脱いで長着姿になった土方は、それまでの副長としての威厳正しい姿から東男らしい、くだけた姿になっていた。
朱色にあふれた部屋の中で、総司のいる部屋は一間だったが土方のいる部屋は二間続きの部屋である。

続きの間には、艶めいた朱色の布団が敷かれているが、まだ若手の桜香だけに、一重の布団だ。だが、それもこの部屋の主の若々しさに見えた。

朱塗りの盃を手にした土方に寄り添って酌をする桜香は、これ以上ない機会にときめく胸を隠し切れなかった。

「どないしよ。うち、ほんまに嬉しゅうてかないまへん」
「ふ。そんなに嬉しいか?」

頬を染めて嬉しさを隠し切れない桜香の頬にすっと顔をちかづけて、その眼の奥を覗き込むように微笑んでから低く囁く。
その瞬間、それまで損得や野心から舞い上がっていた桜香の体の芯からずきりと射抜かれたような気がした。

「ほ……、ほんまどす。新撰組の土方副長に呼んでもろたらもう、うち」

誰に恨まれてもいい。

そういうつもりだった桜香の唇に、たった今まで土方が酒を飲んでいた盃が触れた。ほんの一舐めだけ残された酒が唇から流れ込む。

「酒の相手もいい女相手だとうまいもんだ」

すっと桜香から離れた土方は空になった盃に今度は自分で酒を注いだ。先ほど、夕餉の膳もとっていて、腹も程よく満たされているからこそ、少しくらいは酒を口にしているが、やはり自分から漂う酒気はあまり好きではない。男の酔っ払いから匂うよりも、土方にとっては酒は口説くためのものでもあった。

もとより、好きなわけではないものだし、自分で飲むより妓をほろ酔いにさせたほうがよほどいい。

桜香の胸に楔を打ち込んだ土方は、そっけないほどに離れたかと思わせておいて、すぐにその腰に腕を回して引き寄せた。鼻先がふれそうなほど間近に引き寄せた桜香の唇に再び盃を触れさせると、うっとりとした顔で、自らその盃に口を寄せた。

「ほんに……、土方はんは悪い男はんどすなぁ……。うちなんて、とても歯がたつお人やおへん」
「そりゃな。これでも女修行は積んでるからなぁ」

空惚けた口調ではぐらかすと、今度はきっぱりと自分で引き寄せたはずの桜香の体を押しやった。

「お前さんは、武家の出か?」
「へぇ。貧乏御家人の家の生まれどす」

恥じ入る風もなくにこりと笑った桜香は、ふと胸の内の野心を振り返った。
ここまで来たのではなく、まだここである。桜香の目指す先は従五位にたつ太夫になることだ。そのために、芸事もきちんと務めていて、若手の中では一、二を争うほどの華やかさと腕前を持っていた。

すべてを捨て、すべてを自分の手で掴むためにこうしている。桜香を口説く男達はたくさんいたが、安く自分を売るのは好きではない。どうせなら大店者でもなく、武士がいい。それも、身分のあるものであればなおいい。上役やもっと上の者を連れてきてくれる機会を与えてくれるからである。

その点では、土方という男は土方自身も並み以上の男前であり、その立場といい、まさに桜香にとっては願ってもない相手なのだった。

ふうん、とさらりと受け流した土方の傍へわざわざ近づいておいて、しゅるっと衣擦れの音をさせて立ち上がった。胸の前で結んだ帯に手をかける。しゅるしゅると音をさせて長い帯が広がった。

「身の上話は寝物語に聞くものやおへんか?」

わずかに首を傾けて、上目遣いの目線に盃を置いた土方は桜香の手をつかんだ。

「ほかの妓なら鼻につくところかもしれねぇが、お前さんならそれも可愛げといえるな」

ただ気の強いだけや、自尊心にあふれた妓ならすぐに飽きていただろうが、若さゆえの色が土方を楽しませていた。つかんだ手を反対に強く押し出すようにすると、胡坐をかいていた姿勢から反動も何もなしに立ち上がる。

後ろに押された桜香が後ずさったところを軽く肩先を突かれて、あっと体勢を崩した。思い切り倒れこまないように、ふわりとその体を支えると、男らしい土方の香りが桜香の上に覆いかぶさった。

 

– つづく –