風は今も吹いているか 13
お付き合いくださってありがとうございます。ペースを変えずに書くつもりでしたが、最後まで一気に行くべきかなとここは書いていて思い直しました。なので、お待たせしてしまいました。
あとでまとめなおすつもりではいますが、今はひとまずおしまいです。だからこちらで読むにはとても長くなっています。
もし、気が向きましたら感想お待ちしております。
BGM:From now on
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函館に入った土方は榎本と語り合った際に、ポツリとこぼした。
「――夢物語だな」
武士の国を作る、と言って共に船に乗り、はるばる北の地まできてなお。
土方の胸の内に残されたわずかなものは武士としての矜持だけで、本当は、それさえ投げうって近藤の元に……。
それを押しとどめたのも武士としての矜持なのだから、どれほど土方の心は痛み、疲れ果てていただろうか。
せめて、新選組副長の名に恥じないものをと思うからこそ、止まることなく歩き続けていける。
ただ、思うならせめて会津の地で山口とともに果ててしまいたいとも思った。
それでも北の地まで来てしまったならやるべきことはやる。
冬を迎えた北の地は雪に閉ざされ、そして春を迎える。
雪が解けるとともに、新政府軍が蝦夷を放っておくことはないだろうと思ってもいた。
もし放っておいてもらえるならば生き延びることもあっただろう。
だが。弁天台場に屯営構えた土方の頭には、この後、どうやって始末をつけていくかということに向いていた。
「田村銀之助。お前は明日から榎本総裁付きに転属だ」
「何故っ?!」
「修学のためだ。特に外国語はこの先いくらでも必要になる」
幼いながらできる限りのことをしてここまでついてきたのだ。土方の傍から離れるわけにはいかないと銀之助は食い下がった。
「明日戦争が始まるかも知れないのに意味ないでしょう?!」
「お前の如き役立たずを台場に連れていくのに比べればよほど意味はある」
榎本の傍にいれば、敵軍も子供ということもあって、助命の可能性は格段に上がる。そして、有益だと思わせることができればその先も生き延びることができるかもしれない。
だが、そんな思惑は微塵も表に出すことはなく、冷静に言い切った。
「足手まといにならないだけでもな」
「……!!」
まだまだ子供で勝気な銀之助のことだ。
ここまで言えば怒って飛び出していくだろう。
そこにドアをたたく音がする。
「相変わらずですねえ。鬼副長。死なせたくないからだと素直に仰ればいいのに」
「――……!!」
「江戸での特命を終え、漸く追いつきました」
髪の伸びた頭にはもう月代はない。
前髪はそのままにすっかり大人びた顔でセイが姿を見せた。
「遅くなって申し訳ありません」
「神谷……清三郎?!」
驚愕とともに、特命?と呟いた声に我に返る。
「田村。外せ。俺がいいというまで二階に誰も上がらせるな」
「……承知!」
極秘の話だろうと察した銀之助がすぐに部屋を出ていくと、深い深いため息とともに腰を下ろした。
「よくここまで入れたな」
「弁天台地に新選組がいると聞いて訪ねたら相馬さんが色々手配してくださって」
そういって話を振っても、本当はどうだってよかった。
なぜなら、セイならどんなことをしてでも入り込むことに造作はないだろうと踏んでいたからだ。
「総司はいつ……?」
セイが特命を終えたということは一つしかない。自分たちが向かう前にセイが総司の傍を離れるということはたった一つの理由しかないからだ。
「昨年の五月三十日でした。遺髪を副長に必ず届けよと遺言を残して」
その晴れやかな顔は、まるで鏡に映したかのようだと土方自身は気づいていない。
「で。夫婦にはなれたのか?」
「はぁっ?!いきなり……わっわっ、私は男……!」
「隠さんでいい。疾うに知っている」
顔を赤くしたセイが視線をそらしたが、その様子を見るまでもない。
きっと、満ち足りた日々だったのだろう。
「そんな気は……してましたけど……っ!!」
「子供は?」
「授かってたらこんなとこ来てると思いますか?!」
何のために隠れ家から半月も離れずにいたのかと怒鳴りつけたセイをみて、ふむ、と頷く。
「うむ。確かに」
「……ほんのひと月程の間でしたし、誰に許可を得た訳でもない口約束だけのことですから……」
ほかに何がいるわけでもなかったのだから、それで十分だった。
ただ、それを誰にも知られないというのも寂しすぎる。
「沖田家に対してはもちろん、この先誰にも妻を名乗るつもりはありません。……それでも」
最期の時間を全力で。
本当に全身全霊で愛してくれた。
「幸せでした。思い残すことは何一つありません」
「そうか……。総司も本望だっただろう」
時代が時代でなければ、仲睦まじい夫婦として幸せにやっていただろう。
その夢をたとえひと月だとしても総司が現実のものとして感じられたのならよかった。
自然に土方の口元に笑みが浮かんだ。
「あっ。すいません、一個ありました。沖田先生が副長に託したという私宛の遺書は……?」
「遺書?覚えがないが……」
そんなものがあれば、いつセイが追い付いてくるかと思っていたはずだ。
だが、土方は総司の様子を思いやってはいてもセイがいつ来るのかなどは考えていなかった。
「ですよね!どうせそうだと思ってました!」
騙されていると思いながらも、確かめることがセイに残された仕事と思ってここまでやってきたのだ。
答え合わせはこれで終わりのはずだ。
「然らば!今度こそ何ひとつ悔いはございませぬ故、神谷清三郎、本日只今から新選組に復帰いたします!」
「はぁ?!馬鹿言ってんじゃねぇ!女子と知れた者を新選組に戻せるか!」
「疾っくに知ってたってさっき……?!」
その口が言ったばかりだろうに、すぐに裏返した土方をセイはにらみつけた。
だが、セイの恨みがましい顔など恐ろしくもなんともない。ぴしゃりと土方は拒否して立ち上がる。
「確証がない限りは裁かぬのが俺の信条だ。便乗させてもらえる外国船を当たってやる故とっとと江戸へ帰れ!」
総司の遺髪を届けたことでセイの仕事は終わりだといわんばかりに背を向ける。
「函館は間もなく新政府との決戦の場になる。俺たちは皆玉砕を覚悟している」
「ですから!私も共に死なせてください!!」
セイの叫びは、土方の心の声のようだ。
近藤の悲報を聞いて、ずっと、胸の奥に封じ込めていた。
だが、ようやく逝けるのだ。
女子の出る幕ではないとは言わないが、定命があるとすればそれを全うするのが武士だろう。
「総司がそれを望むと思うか?」
「わかってますよ、そんな事!!でも勝手すぎるじゃないですか!自分はひとりでさっさと逝っちゃって……。彼岸はどんどん仲間が増えて楽しそうなのに私ひとり今生に残って一体何を生きがいにしろと?!」
泣き、叫ぶセイを見て、苦々しい思いで土方は目を眇めた。
―― これは……。俺の姿だ。
本当に苦々しい。
見苦しいばかりに泣き、叫び、先に逝った者たちへの恨み言と、残ってしまった自分への悔恨と。
いっそ、追い腹をと思いながらも、先に逝った者たちはそれを望まないこともわかってしまう自分。
今も、武士として生きるからこそ、命の重さを知る。
「馬鹿者っ!!」
脇差の鯉口を切ったセイを思いきり張り飛ばすことで、かろうじて土方は自分自身のことも奮い立たせようとした。
「幾度となく総司に救われた命だろう!!粗末にすんじゃねぇ」
「死なせて!!もう……死なせてください、副長……!沖田先生……!!」
『土方さん――……』
はっ、と思い浮かんだことに土方は全身の毛が逆立つような恐れとも何とも言えない気分に襲われた。
「――待て。そういう事なのか……?総司……」
不自然な姿勢で動きを止めた土方は、指先から足の先まで、冷え切っていた血が一瞬で沸き立つような感覚にざわり、と震える。
セイがなぜ今まで追い腹を切らずに、ここまで来たのか。
それを思えば総司の遺志がなんだったのか、はっきりと感じた気がする。
「だから……。俺のところに来させたのか……!」
声が震えるなど、土方にとってそうそうあるものではない。
だが、声が震えていることも自覚がなくて、ただ、誰かの声を聴いているようなどこか現実味のない声がする。
「神谷。総司からの遺書は覚えがねぇが……。その遺志は受け取ったぞ」
「副長……?」
「これからお前に“希望”を授ける」
希望。生きる術を。
それは、セイのためだけではなく、土方自身にとっても生きる術だ。
セイの腕をつかんでつい先ほどまで自分が座っていた長椅子に抑え込む。
「な……っ?!」
「目を閉じて俺を総司だと思っておけばいい」
「止めてください!!」
「わからねぇか?これが総司の遺言なんだよ。『あとは土方さんが何とかしろ』と」
抑え込んで、その細さにこんな体でよく今まで隊についてきていたと改めて思う。そして、小姓の頃よりも確かに女子の体に総司を思う。
力づくで逆らうセイのこぶしが顎に当たった。
「女子を何だと思ってるんですか?!勝手な解釈しないでください!!」
確かに武家の女子にとっては、夫を亡くした後家と血を遺すために、兄弟や縁戚から跡目を選び添わせることもある。
だが、それを土方がやろうとするのはセイには訳が分からなかった。
「ふざけんなこの下衆野郎!!触るな!!離せ!!」
暴れるセイを再び抑え込むことなど造作もない。
そして、土方は別のことを思っていた。
「いいぞ。神谷。もっと怒れ!!」
この世の中に。
「力の限り抗うがいい!!」
この止められない流れに。
顔を背け、歯を食いしばるセイを見てもっとだと思う。
「退け!ケダモノ!!本気で殺すぞ!!」
「いいぞ、その調子だ!!」
誰が決めたのかは知らない。
だが、武士の儚い在り方に。
その儚さを踏みにじり、屍を踏みしだいて新しい世を作り出そうとするものに。
「そうだ、叫べ!!もっともっと……。そして」
生きてくれ。
肩の上に額を乗せた土方が、震えているのに気付いたセイは、抵抗を止めた。
声も出さずただ震えるその人が泣いている。
その事実が土方に遅れて、ようやくセイの心にも届いた。
『……――セイ』
―― 沖田先生。先生には、……ずっと前からわかっていたんですね……
土方がどれだけ傷ついて、傷ついた自分のこともわからなくなっているか。
その土方を支えることもできない総司が何を思っていたのか、ようやくセイにもわかった気がした。
「……副長」
震える肩に自由になる片手をそっと添えた。
「少し離してください。そして、少しだけ話をさせてください。今だけは……。すべてを語るのは野暮だということも置いて……」
ゆっくりと体を起こした土方はそのまま顔を伏せて、セイの腕をつかんでいた掌で目頭を押さえた。
「そうでしたねぇ……。副長は素直じゃないってわかっていたのに。今この瞬間だけ忘れていましたよ」
土方の隣に、起き上がったセイは着物の袷を押さえて座りなおす。
「……うるせぇ」
「副長。副長は……、此度の決戦で玉砕するおつもりなんですね」
返る言葉はない。
だからこそ、それが答えである。
死ぬための戦ではなく、武士として士道に基づく生き方を見せつけるための戦だからだ。
「それなら、私が共に行きたいと思うのもお分かりですよね?」
「……そうだな」
武士として生きてきたセイを見てきた。
泣き虫で、生意気で、情に流されやすく、甘いところも多かった。
それでも、総司とともに近藤を支え、総司を支え、試衛館の面々のほかには斎藤と並び誰より信頼を置いていた。
「お前は確かに武士だ」
「ならどうして反対されるんですか」
「一つは、総司が望むからだ」
遠い日野の日々からどれだけ長い時間が過ぎても、あの生意気で時折は土方を出し抜くこともある総司には、土方ならわかってくれると思ったのだろう。
土方のことだ。
どれだけセイが武士として生きていたか知っている土方だからこそ、武士として生かしてほしい。
それが総司の望みだろう。
「二つ目は……?」
静かに問いかけたセイの声を聴いていた。
武士としての姿と矛盾することなく、女子として総司に仕えてきた姿も知っている。夫婦として過ごしたこともセイから伝わるだろう。
だからこそ、女子として生きる行く末を託した。
『土方さん。土方さんにしか頼めませんよ』
―― 馬鹿野郎……。こんな重いものを俺に押し付けやがって……
「お前が女子だからだ」
「そん……っ」
「お前が怒っても、何を言っても、お前の本性は女子だ。……男とは違う。男は、いつまでも夢を見てしまう。例えば今がそうだ。この蝦夷に武士の国を作るのは、遠い夢だ。それを目指してはいるが、徒労に終わるだろう。だが、女は違う」
女子を否定するわけではない。
むしろ、女子ならば、地に足をつけ、現実を生きられる。そして、生きるために地を這っても強く、新しい世の中に順応していくだろう。
「未来を……生きられるものは銀之助のように生きればいい」
「ずるいですよ……」
責めるわけでもなく、静かにセイが応えた。
「……そうだな」
「でも……それが副長なんですね」
もう止まることもできず、わかっていて土方は戦いに挑んでいくだろう。
『あの人は存外脆い人ですからね。貴方にしかお願いできないんですよ』
土方が最後まで走り続けられるように。
志半ばで崩れることなく逝けるように。
―― 旦那様。それは、私には荷が重いです……
『私は、あなたが武士だと思っているからこそですよ』
土方は希望を授ける、といった。
だが、本当は遺された土方が今すべてを一人で背負っているものを託したい。
そういう事だろう。
武士として潔い姿の最後を、さらにその先の未来に伝えてほしい。三百年におよぶ平穏の時代への恩恵に報いたいと願った侍がいたことを。
セイは静かに息を吸い込んだ。
総司の妻と誰に名乗ることはなくても、土方にはセイからそれが伝わることもわかったうえで、土方の元に来させた訳がすべて紐解かれる。
もしも、セイに子供ができていたら、セイは何としてでも土方に子供ができたことを伝えていただろう。それを知った土方が、武士としての生き方よりも、セイを守るならともに二人は生き延びるだろうことを願ったに違いない。
そして、セイがこうして土方の元を訪ねたとして、土方がどう思うか。
もし、武士としての生き様をセイに認めて共に逝くことを許すならそれもよし。
そして……。
「……武士としての命を……繋げとおっしゃりたいんですね」
「お前に、じゃない。お前と総司にだ」
「ただ一人……、私に生き延びろというんですね」
両手を組んでその上に頭を乗せて、肩を震わせている姿に、セイは今まで出会った女たちの顔が思い浮かんだ。
お里さん……、深雪太夫、お孝さん、小花さん、トキさん、おまささん。
―― 私は……
覆いかぶさるように、セイは土方の背を抱え込んだ。
「……私は、武士として、女子として、土方副長にも、沖田先生にも信頼されたんですね」
セイが生き延びるだけでなく、その魂を受け継ぐ命を託したい。
ゆっくりとその大きな背を撫でる。
しばらくして、土方がその頭を上げた。
「……わかっている。わかっているんだ」
これもまた時代の価値観による非道ではあるが、土方や総司にとっては遺していくセイが決して違えることのできない特命を託すことでどうか生きてほしい。
生きてほしいのだ。
何もかもが終わる今、ただ一つの願いは武士の心を持ったセイが生きていってほしい。
「……仕方ありませんね」
―― 旦那様。旦那様はいつも、私に難題をお任せくださるのですね……
感情のない関係というよりも、互いの傷を舐め合うようなどちらにとっても切ない時間である。
総司と過ごした、慈しむような時間とは違う。その分だけ、お互いに優しくできたのかもしれない。
白々と空が明るくなり始めた頃、身支度を済ませたセイが荷物を手にしていた。
「……では副長。明けきる前に出ます」
「……うむ」
情を交わしたというには、そのかけらもないくらいの空気で互いに淡々と頷く。
「船が横浜へ着いたら、これを持って日野の佐藤を訪ねろ。決戦を控えて撮ったポトガラだ。本人からの証に歯型をつけてある」
書付と、ポトガラをセイに差し出した土方に、セイは素直に頷いた。
「この書付と共に届けてくれ」
「承知しました」
「然らば……」
たくさんの積み重なった澱を捨て去った土方は、まっすぐにセイを見た。
「神谷清三郎。お前は実に見事な武士であった。これほどの武士を俺は他に一人として知らぬ」
だからどうか。
どうか百年でも生き抜いて、この国に誠の侍のいた事を語り継いでくれ。
これが本当に、最後だとわかっているからセイは悲しいとも悔しいともつかない涙を浮かべてその頭を上げた。
「副長……!」
「武士の時代は終わる。その時代と共に逝ける事を俺は本望だと思っている」
「終わりません!」
すべての澱を引き受けたセイは、涙があふれるままに言い切った。
「まだ私が生きています!!」
「は!違えねぇ!」
屈託なく笑って、セイを送り出した後、土方はすぐに市村を呼んだ。
野村も、相馬も傍にはいない。今の腹心の一人、市村鉄之助を呼んだ土方は、引き出しから手元にある金のありったけを包んで差し出した。
「市村。今すぐ、神谷清三郎を追え。日野の俺の実家宛の書付を託した」
「副長?!」
顔色を変えた市村に、土方はそのまま早口で続ける。
セイのことは市村も見知っていたが、ここに現れていたことは気づいていなかったからだ。
「お前にだけは伝えておく。あれは女だ。男姿で函館を脱出するのは難しいだろうから、お前はあれと夫婦を装っていけ。船には話がついている」
「な……っ!突然、何をおっしゃってるんですか」
あまりに急な告白をきいても、さすがに頭がついていかない。
ましてや、今は決戦は今日か明日かという状況だ。
「冗談にもほどがありますよ!!」
「冗談じゃねぇ。神谷の足が速くても船の出発は今日の遅くだ。だから今から急いで支度をして船に向かえ。これしか今は手元になくて悪いが……」
「……本……気ですか。今、自分にここを離れろと?!副長のお傍を離れろとおっしゃるんですか?!」
「そうだ」
まっすぐに鉄之助を見返した土方に、唇が震えてその先が言えなくなる。
「お前はたった今から隊を離れろ。そして、神谷を守れ。もし……」
言葉を切った土方が、何かを躊躇っているのを感じた鉄之助はその次の言葉を待った。
「……副長?」
「もし、神谷の身に何か異変があればそれも含んで守ってほしい。それだけだ」
それが本当なのか。
迷っている時間も、悩んでいる時間もないという。
今、ここを離れろと言われても納得できるものではない。
「副長……」
唇をかみしめた鉄之助は何度も頭の中で土方の言葉を反芻した。鉄之助は、銀之助ほど口数が多いわけでもなく、どちらかというと若いのに相馬のようにおとなしく状況を見定めることができる男だ。
「……副長。長らくお世話になりました」
セイを守れ、という命令には期限がないということも察してしまう。
だからこそ、鉄之助は土方に向かって頭を下げた。
重い、とても重い密命だ。
「行け」
「承知!」
金を握って土方の部屋を飛び出した鉄之助は、急いで自分の荷物をかき集めて屯営を走り出した。
先に屯営を出たセイは、土方の元に向かった時、それまでの荷物も着物も何もかも捨て去っていた。そのため、まず相馬の手を借りようと再び弁天台を目指す。
だが、相馬はセイが思う以上に気が回る男だった。
「あの!」
朝焼けの中、足早に歩くセイの前に小柄な男が姿をみせた。
「すみません。こんな姿ですが、新選組の者です。相馬隊長から命を受けて神谷さんを探しておりました」
「あっ、それは……。ありがとうございます」
こんな早朝なのにとセイが恐縮していると、隊士は逆に恐縮して頭を下げた。
「いえ、本当は屯営でお声をかけられれば良かったんですが、副長に知られないようにということで少し離れたところにいたので神谷さんに気付くのが遅くなってしまって……」
そういうと、風呂敷包みを抱えてセイを誘導する。
いつ出てくるかわからないからと屯営の外で待っているところまで相馬から事細かに指示を受けていたらしい。
「市中も新政府軍がせまってきており、もはや弁天台に近づくのは危険なのです。町の一軒家を拠点の一つにしていますのでそちらにご案内します」
「ありがとうございます!」
そういって案内された隠家も相馬らしい行き届いた手配りだった。
「お仕度が終わったらお声がけください。こんな時間に動く者は不審に思われます。周囲に人が出てからこちらを出ていただきます」
行く先も聞かずにいてくれる隊士に黙ってうなずいたセイは家の中に入った。玄関の内で待つという隊士に礼を言って、受け取った風呂敷を開くと走り書きのような文が中に入っている。
『神谷さん
屯営を出たら船に乗るために港を目指されると思います。新政府軍の目を引かないように、こちらに来た時と同じように女子姿で出てください。少ないですが、入用になると思うものを包んであります。
どうぞ、ご無事で』
「相馬さん……!」
文を握りしめて、セイは胸元に抱え込んだ。
いつまでもそうしてばかりもいられず、気を取り直して荷物をあらためる。
セイが捨て去ったものも含めて、相馬は入用になりそうなものをきちんと整えてくれていた。
それらを使って、手早く髪を結いあげて、身なりを整える。髪が伸びたおかげで丸髷を結うのはだいぶ慣れたものだ。
「神谷さん」
表から声がかかって、セイは急いで着替えながら返事だけを返した。
「すみません!もう少しお待ちいただけますか……」
「いえいえ。申し訳ありません。大丈夫なのですが……」
「何か?」
「市村が来ています。入れてよろしいでしょうか。副長からの指示を言付かってきたと」
驚いたセイはふすまの間から頭だけをのぞかせて玄関を見た。そこに懐かしい顔をみて、セイは少しだけ待つようにいって、着替えを急いだ。
「……待たせました」
「神谷さん。ご無沙汰しています」
部屋に招き入れた後、普通に旅姿で現れた鉄之助と向かい合う。
「鉄之助、久しぶりだね」
「はい。あまり時間があるわけではないので、手早くお話します。副長から申し付かってまいりました」
「それが驚きなんですが……」
てっきりセイは一人で日野まで向かうつもりでいたのだ。土方も鉄之助を寄越すとは一言も言っていない。
鉄之助はきっぱりと首を振った。
「神谷さんが出た後に言いつかりました。これから、神谷さんを日野までお送りします」
「え」
自分一人で向かうつもりだったセイは、目を丸くして動きを止めた。
「自分のほうがどうしたって年下にしか見えませんが、一応夫婦を装っていけば名前が残るのは自分の方です。神谷さんはあくまで自分の連れとして日野まで行っていただくようにと」
「……副長が?」
「はい」
まるでその光景が目に浮かぶような気がして、セイはだんだんおかしくなって笑い出した。
「ふ……、あははは。ほんっと、抜け目ないなぁ。鬼副長は」
「か、神谷さん?」
「あー、おかしい。で?私のことも聞いたんだよね?」
「それは……はい。俄かには信じがたかったですが、こうして今の神谷さんを見ると、確かに納得しました」
急に笑い出したセイに驚きながらも、目を彷徨わせた鉄之助はセイから視線をそらしたまま頷く。
目の前にいる女子姿が変装ではなく、本当の姿だと思うと驚く以外ない。
「それじゃあ、私が途中で気が変わってっていう事も出来ないってことだね」
笑い収めたセイがぽつりとつぶやくのを聞いて、答えていいものかどうかしばらく鉄之助は迷った。でも、セイは何かを言ってほしいのではないかと思い直して口を開く。
「自分には、神谷さんが副長からの頼みごとを引き受けておいて、途中で気が変わる人だとは思いません」
「……とっても悔しいけど、その通りではある」
どこまでも、生き延びよと。
「これから日野まで長い旅になると思うけど……、よろしくね」
「いえ。それは……」
土方は、日野までとは言わなかった。
日野に向かうセイを、守れと。
どこか晴れ晴れとした笑顔で手を差し出したセイと握手を交わして、これからの道のりを確かめ合った。
横浜行きの船に乗り、横浜に着いたら日野を目指す。
目指すといっても、以前のようにはいかないだろうから少しずつ進むしかない。
「じゃあ、行こうか」
そうして。
旅の果てに鉄之助とセイは、土方が考えた通り、鉄之助の名前しか残さず日野にたどり着いた。
途中で鉄之助は刀を金に換えてもなお、セイを守ってようやくたどり着く。
「神谷さん?!まあまあ女子姿で……」
「すみませ……。ちょっと気分が……」
「まあ、中暑じゃないかしら。この暑さで……」
セイの荷物のほとんどを抱えていた鉄之助は素早く門のうちに入って、セイに手を貸しながら佐藤家の裏手に回る。
下男とのぶが出迎えてすぐ、二人に水を運んできた。
「いえ……」
ようやくたどり着いた佐藤家の土間でセイは崩れ落ちてしまう。横浜についてから少しずつ、具合が悪くなって、足が遅くなったのはこのせいだ。
「え……っまさか?!」
のぶがすぐそばに立っていた鉄之助を見たが、鉄之助は全力で首を振った。
「自分ではありません。神谷さんは……」
「い……から……」
説明はいいと首を振ったセイを抱えて家の中に運び込んだ。
佐藤家はもとより広い家だったが、それからしばらくして、一番奥の部屋と正面の玄関に続く部屋の間に隠れるように、小部屋を作った。
いつも、表からくる人を見分けられるように、小部屋の表にある部屋を鉄之助の部屋として、外から見える引き戸の位置までずらして、隠れ住むことができるように設えたが、その奥の部屋のことは佐藤家のものしかわからない。
二年という時間が過ぎて、セイは鉄之助に告げた。
「鉄之助」
「何でしょう?セイさん」
「少しいいですか?」
改まって、セイに呼ばれた鉄之助は庭を眺める縁側で並んで腰を下ろした。
「ずいぶん、長い間ありがとう」
「……セイさん」
「もう、十分だよ」
頷いたセイは、縁側の節に施された意匠を指で撫でた。
体の自由が利くようになって、少しずつセイは世上の話を聞くようになっていた。のぶや佐藤家の人々の手を借りて、生き残った人の行く末を聞く。
そして、松本が生きて一時は新政府軍に捕まったものの、赦免されたことも耳にすることができた。それもトキが仮寓に変わらず居を構えてくれていたおかげである。
そののち、新政府からの再三の要請を受けてそろそろ兵部省に出仕することにしたと松本から連絡を受けたセイは動くべき時を知る。
「……そう、ですか。自分は、いえ、自分も……!」
セイを守れ。
その命はまだ終わっていない。
だから、セイが松本の元に向かうなら自分もと言いかけた途中で、セイに止められた。
「もう、十分だよ。私たちは」
託されたものは確かに未来へとつながっている。
セイがもう片方の手でゆっくりと撫でている姿を見て、鉄之助はふっと力が抜けた。
「そう……ですか。長い、長い間、お世話になりました」
「こっちこそだよ。ありがとう。長い間傍にいてくれて」
武士の生きた三百年の間の、新選組が戦った時間はほんのわずかだ。
そして、その新選組の生きた短い間の、さらにたった二年と少しの間でしかない。
だが、二人にとってはこれからも続く長い長い時間の途中で。
わずか二年あまりの間、夫婦を装い続けた二人の関係は少しも変わることなくその胸の内にあるものと同じだった。
そして、東京で松本の元で医術に励むセイは、広い空の下で神様の気まぐれに出会う。
「……神谷……か?」
通りすがりに思いがけない声を聴いたセイは、周囲を見回して驚いた。
「え……っ、斎藤先生?!」
互いに顔を見合わせて確かに相手がその人だとわかった瞬間、セイははじけるような笑顔を見せた。
「生きてらしたんですね!!よかったぁぁ!!」
「ああ。当時玉砕と伝わったらしいが……。今は藤田五郎と名乗っている。あんたは……女子になったのだな?」
「えっ、あっ、えーと……」
どう話したものかと躊躇いはしたが、いまさら何を躊躇うこともないと思い直す。
「ハイ。富永セイと名乗っております。今は法眼のお手伝いを……」
そういったセイに、制服姿の斎藤は頷きながら今はどこにと言いかけて驚く。
「かか様!」
「どこ行ってた!こら!」
「あんたの子か?」
小さな男の子がセイに駆け寄ってきて、叱られていることを気にする様子もなく斎藤を見上げてきた。
「こんにちは」
もう、と怒りながらセイは男の子の頭を押さえてから抱き上げた。
「誠と申します。六歳になります」
「……沖田さんに瓜二つじゃないか……」
「よく言われます」
ふふっと笑ったセイは抱き上げた子供に頬を摺り寄せた。
「先生。すいません。急いでいるのでまた改めて!」
「お。おう」
斎藤の様子から警察官ということが分かれば、今度は訪ねていくこともできる。
慌ただしくその場から離れたセイは、約束の時間に遅れてしまうと松本の元に急いだ。セイに抱えられた誠は、セイの肩をトントンと叩く。
「かか様。オキタさんってだれ?誠のとと様ですか?」
「ふふっ。内緒です。誠が大きくなるまではね。これだけ覚えててくれればいいの!」
それはきっと長い長い話になる。
それを理解できるようになるのはまだまだ先だからこそ、セイはそれまで話すつもりはなかった。
誠の父親が誰なのか、佐藤家でも松本にも話したことはない。
セイの様子から総司の子供としているようだが計算が合わないこともわかっているだろう。それ故に、今までもセイと誠の周りでは、誠の父について話が出てきたことはなかった。
だから、折に触れ誠は素直に疑問を口にする。時折、セイが櫛箱に入れた誰かの髪に向かって手を合わせているときも、不思議に思っているらしい。
それでいい。
今はそれでいいのだ。
空を見上げる横顔に愛しい人を想う。
屈託のない笑顔に大きな人を想う。
悪びれずに知恵が回る姿に不器用な人を想う。
たくさんの人を、思い出す。
日々を忙しく過ごしながらも、いつか、それは話す日が来るはずだ。
誠は、総司だけでなく、武士として生きた彼らの子供なのだから。
その昔、人々の価値観は生き方同様潔いまでに簡潔でだからこそ、言葉にしなくても伝わるものが多く、あえて口にするものは野暮と思われていた。
武士の生きた時間以上に時が過ぎて、たくさんの人の思いが、作り上げた自由という名のもとに多様性に満ちた価値観が広がり、今は互いに言葉にし、伝え合わなければ想いのたけは届かないことも多い。
だからこそ、力で傷つけ合いこうあるべきと縛られていた頃のように、言葉を武器にして傷つけあうのは、苦しんで命をかけてなお、今の自由を生み出してきた人たちの想いを踏みにじることになるのではないか。
その力のほどを知り、礼を弁えて思いを伝え合う。
『私たちの残したかった士道は、確かに息づいていますよ』
— 終わり