涙雨

〜はじめの一言〜
出会えるのかな。記憶がなくても。
BGM:
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「うわ、また降ってきやがった」

真っ暗なはずの表を眺めた原田は、ブラインドをあげてエアコンの吹き出し口のある窓枠に手をついた。ビルの窓には大粒の雨がこれでもかというほどあたっていて、分厚い窓ガラスのふちに流れ込んでいる。

その原田の後頭部を丸めたクリアファイルが勢いよく襲った。

「いいから仕事しろ!てめぇ。残業時間に悠長に雨を眺めていられるような身分にいつなった!」
「いってぇな。飲み屋の七夕デーにでも行こうとしてんのかもしんないけどさ。ちょっとぐらいいんじゃね?」

くるりと回った椅子の背にかけられていたジャケットがきれいに広がって、立ち上がった土方は、腰に手を当てて憤然と原田を睨みつけた。
デスクの上にはパソコンと、未決の資料と、会議の資料が山積みになっていて、さらにその下は立てられた資料本がずらりと並ぶ。

ワイシャツの袖をまくり上げた原田が後頭部を擦りながら腰に手を当てて反り返った。長時間のデスクワークで、体を起こしたかったのだ。

「原田さんだって、本当は飲みに行くはずだったでしょ?」

土方の左手にはずらりとデスクが並び、その一番端の方からくすくすという笑い声と一緒に若い声が聞こえてきた。大きく伸びをしながらその声の主の方へと原田が歩いていくと、ずっと聞こえていたキーをたたく音が止まった。

「奏。お前ちょっと先輩に対して生意気だっての」
「そういいますけどね。先週でしたっけ?ナースと合コンだって喜んでましたよね?」
「ばっ!てめっ!もう二度と誘ってやらねぇぞ!」

デスクに置いてあったコーヒーを手にした沖田がカップのふちを掴んで常温になったコーヒーを口に含んだ。その斜め前のデスクにすわった原田は、マウスを動かすと出来上がった資料を打ち出した。

少し離れたところでプリンタの動く音がする。デスクワーク用に履き替えた健康サンダルとぱったぱったといい音をさせながら歩いてとってくると、クリアファイルに挟み込んで土方のデスクへと向かう。

「別に俺だって遊んでるわけじゃねぇっすよ。ほら、ちゃんと仕事はしてるんすから」

パソコン用のメガネをかけた土方が画面に向かっているところにそれを差し出す。ちらりと眼鏡越しに見上げた土方は、間を置いてからそれを受け取った。

「……お前。つくづく思うが、こう言う事だけは最高に向いてるよな」

ぱらぱらと出来上がった資料をめくりながら土方がつぶやいた。コストの面からもアイデアとしても、非常によくできたプレゼン資料に文句を言っていた土方だが認めるところはきちんと認めるのだ。へへ、と笑った原田が親指で自分の鼻を弾くと自慢げに沖田を振り返る。

「やっぱりナースがかかってると出来が違うとでもいうべきか……」
「ちょーっと待ったぁ!!そこ!違うアルよ!いくら課長でもそれ、大きく違うね!俺の才能に嫉妬してる!」
「馬鹿野郎。誰がだ、誰が。俺はお前と違って合コンなんか行かなくても女に不自由しない」

負けず嫌いなのか、そもそも論点が違うと言えばいいのか。
資料を眺めている土方にかみついた原田がその目の前にびしぃ!と指を立てて見せた。まさに目線で追っていた先を邪魔された土方が顔を上げると、原田が腕時計を示した。

「じゃあ!聞きますけどね。もし誘ってももちろん来ないんですよね?!鬼課長!」
「馬ー鹿!あったり前だろ?そんなもの行くに決まってる」
「!うわ、きったねぇ……」

―― また全部持ってく気だよ、この人

嫌そうな顔で呟いた原田に、土方が当然、という顔で資料をトレイに放り込んだ。これで来週頭のプレゼンはスムーズにいくだろう。

「しかし、七夕だっていうのに合コンとかどうなんだよ」
「いいじゃないすか。こうして仕事に明け暮れた彦星である俺様と、可愛い可愛い仕事明けのナース織姫が出会うんですよ」

これから勇んでセッティング場所の店に向かうつもりの原田は、デスクの引き出しから身だしなみとばかりに男性用のウェットシートを取り出して首筋を拭い始めた。

それを見ていた沖田は、残りのコーヒーを全部あけた。

「それにしても合コン好きですねぇ」
「お前がおかしいんだよ。いくら誘ってもきやしねぇ。お前だってモテんだろうに」
「うーん、なんか違うんですよね。合コンとかじゃなくて、出会うべくして出会う、みたいなのがいいんですよ」

からのカップを手にした沖田に原田と土方のどちらもぷっと吹き出した。
入社三年目とはいえ、このチームでは一番の若手になる沖田の言葉が彼らからすると、一層若者の言葉に聞こえる。

「何、乙女チックなこと言ってんだ。そんなだから、男前なのに彼女いない歴ん年なんだよ」
「全くだ。俺は部下には合コンで絶対勝てる面子をそろえたつもりだったが、選択を間違ったか?」
「いや!課長、そこは三十路に足突っ込んでて合コンに精出してるアンタもアンタだから!」

ふわふわのくせっ毛をうまく生かしたサラリーマンスタイルの髪をかき上げた沖田は、自分で言っていて照れくさかったのか、頭を掻いた。

「いやまあ……。別に、俺だって彼女がいたらいいなぁと思うことくらいありますけどね?遊びで女の子と飲みに行ったりするよりも、どうせなら本当に好きな子がいいっていうか……」
「あーあー。じゃあ、聞くけどな。お前の本命の彼女ってな、いつ出会うんだよ」

呆れた口調の原田に、沖田は目の前の画面に入力しかけていた最後のあたりを打ち込みながら答えた。

「それがわかれば苦労しませんけどね。でも絶対に出会うはずなんですよ」
「なんだか、変わった奴だな。お前」

一番遠くの席にいる土方が、火をつけない煙草を口にくわえて、二人の席の近くへと歩いてくる。昨今、フロアでタバコが吸える企業などめったにない。ここも同じようにタバコ部屋が廊下の端にある。胸ポケットにライターを入れて土方は原田の隣の席に寄りかかった。

「出会うはずってどういう自信だよ?」
「自信……じゃないんですけどね。親に聞いたんですが、幼い頃なんですけど。そうだな、うちは共働きで保育園児だったんですけどね。よく泣く子供だったらしいんですよ」
「あー。まあ、野郎にはガキの頃甘ったれが多いっていうよな」

火をつけずにかちかちとライターを回すだけ回して遊んでいる土方がいかにも微笑ましいとばかりに頷いた。そんな土方に沖田は、ぱちぱちと雨だれのようにメールを打つ。仕上がったところまでの資料は印刷しなくてもメールで十分だと判断したのだ。

「まあ、そうなんですけどね。これが親も手を焼くくらいの甘ったれだったんですけど、それ以上によく不思議なことを言い出して泣いてたらしいんですよ。それが、あの子を迎えに行かないと、泣いてるからって。ずっとそういい続けて、よく泣いたらしいんですよねぇ」
「ぶっ、すげぇな。お前。あの子って誰だよ」

てっきり同じ保育園児の話かと揶揄する原田に、沖田が首を振った。自分自身でも覚えていないくらいの話だが、確かに親の記憶には残っているらしく、今でもからかわれることがある。

「それが、なんとかって言ってたらしいんですけどね。子供ですから、ほら。舌足らずで聞き取れなかったみたいなんですけど。僕はお星さまになったからあの子を迎えに行けなかったんだって。だから今度こそ迎えに行かなくちゃいけないんだっていうんですよ。それで、気味悪がった親が祖母にその話をしたら、きっと前世でも覚えているんだろうって。昔はよくいたらしいですよ。子供の頃に前世を覚えていて、そういう不思議なことを言う子供って」

沖田の祖母の話によれば、幼馴染の子供にも戦争に行って二度と会えなくなった兄と話をしているという子供がいたらしい。しかし、それらは皆幼年期のことで、成長するにつれて、皆忘れていくらしい。

あまりに真面目な話になったために、原田はちらりと土方の顔を見上げた。ここでからかい続けるほど幼くもない。互いに肩を竦めあって、結果として年長の土方が話を引き取った。

「もう何も覚えてないのか?」
「覚えてなんかいないですよぅ。覚えてたらそれもすごいでしょ?だったら大学の時の英語の一つでも覚えていたいですけどねぇ」
「はは。だが、その迎えに行くはずの子を忘れてたら迎えにいけねぇだろ」

原田がパソコンの電源を落としたことに気づいて、沖田も確認することをメモに残して電源を落とす。シャットダウンの音にまぎれて、窓にあたる雨粒の音が大きくなった気がした。

「きっと、まだこんな風に雨が降ってて迎えに行くタイミングじゃないんでしょうね。いつか、その時が来たらきっとわかるんじゃないかな~なんて……。あれ?また、俺、クサい話しましたね」

ポリポリと頭を掻いた沖田は椅子から立ち上がると、先ほどの原田のようにうーんと唸って腰を伸ばした。咥えていた煙草を指の間に挟んだ土方は、寄りかかっていたデスクから身を起こすと、タバコ部屋へと歩き出した。

「ま、週末の残業時間だ。特別にクサい話は聞かなかったことにしてやる」

フロアを出る直前に、たばこ一本だけ待っていろと原田に言い残して土方はフロアから出て行った。帰り支度を始めた沖田に、もう一度だけ行かないのかと問いかけると苦笑いで沖田は手を振った。

「いいですよ。遠慮しときます。俺が行かなくても課長が行ったら場が盛り上がるのは確かですし。また飲みなら誘ってください」
「おう。お疲れ」
「お疲れ様です」

スーツのジャケットを羽織ると、バックを手にフロアの入口へと向かう。大きめの傘を手にすると、沖田は電気のついていないところもあるフロアを振り返った。

雨粒の滲む窓越しに見えるビルの灯り。

―― そうだ。迎えに行かないと……。『彼女』を

胸の底に、思い出せないのにこびりつく思いを感じながら沖田は人気のない廊下を歩いてエレベータのくだりをおした。

まだ、あと少し。

覚えていても覚えてなくても、必ず迎えに行くと約束したのだから。今は見えない天の川の向こうまで。

– 終わり –