風のしるべ 35

〜はじめの一言〜
原田兄貴が少しでも変えてくれればいいんだけどねえ
BGM:Believe in love
– + – + – + – + – + – + – + – + – + –

朝方、億劫そうに腕を上げた奏は、薄ら明るくなった部屋の中で光を反射した天井を眺めた。

あれから、何度か、未生からメールが来たが、一度も返してはいない。これ以上近づきすぎてはだめだと何かが警告するのだ。

日々、鮮明になる記憶と戦うのは正直辛かった。特に、事態が転がっていくにつれて、かつての自分がどんなふうに思って、どんなふうに見つめて、そして戦えなくなって。

あの町で暮らした時間の中がかつての自分のほとんどを占めていたような気がするのは余計に苦しかった。

「……もう、たくさんだ」

起き上がると、カーテンを開けるのさえ億劫で、テレビのリモコンを手にすると、朝の情報番組をつけておいて風呂に入った。1時間ほど入ったとしても十分に余裕がある時間である。

ついでにひげもそって、頭からシャワーを浴びるとようやく鬱陶しい影を払いのけた。

コーヒーにタバコ。

かつてなかったものに手を伸ばせば、ありえないほど昔の記憶などねじ伏せられる気がした。
そうして、気力ですべてを凌駕できると思っている自分こそ、過去と同じ思考なのだということは自分では気づかない。

クリーニングから戻ってきたワイシャツに腕を通すと、背筋が伸びる気がした。

着替えを終えると早めに家をでて、いつものようにコーヒーショップに足を向けた。サンドとコーヒーを買った奏が席に着くと意外なことに原田がすでに席に座っていた。

「原田さん。おはようございます。早いですね……。心なしか、くたびれたシャツ着てません?」

目ざとくも、朝なのにこなれたシャツの具合に奏の目が向いた。
奏と同じコーヒーショップの袋からコーヒーとラップロールを手にしていた原田が眉を上げる。

「お前目ざといね」
「あっ!まさか……」

鞄を置いて、コーヒーを手にした奏の目が一気に優しくなる。
記憶が鮮明になるにつれて、この部屋にいる面々が誰なのか、薄らわかり始めてきていた。原田が、あれほど恋女房として大事にしていたのがきっとまさみじゃないかとも思っている。

それだけに原田とまさみが幸せになるなら喜ばしい気がした。

「あの髪の長い……?」
「まさみちゃんね。ま、そんなとこ」
「……よかったですね。原田さん、嬉しそう」

冷やかすわけではないが、真剣によかったと思う。
原田の傍まで来てコーヒーを飲みながらニコリと笑った奏を見上げた。

「あのさ。お前、最近、どっかへんだよな」
「変?ですかね。俺」
「変だよ。俺が思うよりずっとお前らしくてお前らしくない」

は、と苦笑いした奏が、コーヒーのカップを持ち上げて自分の席へと戻っていく。その様子が、触れられたくない傷に触れられたかのように見えた原田は思い切って踏み込んでみる。

「昔、俺、左之って呼ばれてたことがあるみたいな気がするんだよね」

持って回った言い方だったが、もし、“そう”だったら通じるはずだった。
ほんの一瞬、奏の目がコーヒーの水面から離れた。

「お前は、なんて呼ばれてた?」
「なんてもなにも、俺にそんなあだ名みたいなものはありませんよ」
「そうだよな。総司」
「ええ」

―― しまった

答えた瞬間に動揺したのは自分でもわかった。なんでこんなにすんなりと応えてしまったんだろう。
ただ、そんな奏を責めるでもなく、問い詰めるでもなく、原田は静かに言った。

「そっか。……でも、俺はまた会えてうれしいよ。お前にも、まさみちゃんにも、ほかの奴らにもさ」
「……やだな。原田さん、もう会社まで来て、まだ寝ぼけてるんですか?」

それは夢の話だろうと、話を流してしまうつもりで、買ってきたものに手を伸ばすが、もうとても喉を通りそうな気はしなかった。

「寝ぼけてなんかない。おまえだってそうだろ?俺はお前を奏って呼ぶけどな。それでも、会えて嬉しい」
「ほんと……、原田さん、何言って……」

胸苦しくて、コーヒーの味もわからなくなる。せっかく振り払ってきたはずの記憶が重くのしかかってきた。

「俺も……。なんだろうって初めは驚いた。でも、古い知り合いが傍にいるみたいで今は悪くない」
「そんなわけ、……ないでしょう?!」

うっかり握りつぶしそうになったサンドを面倒になって、コーヒーショップの紙袋に押し込むとそのままゴミ箱に押し込む。
もう少しもこの話を続けたくなかった。

「……やめましょう。頭がおかしくなったのかと思われますよ。こんな話」

朝の挨拶を交わす声が徐々に増え始めたところで話題を無理やりに断ち切った。
ひどく痛ましそうな目が追いかけてくるような気がして、その日一日、奏は原田の視線から逃げ続けだった。

胸の内で一度でもつなげて考えたら終わりな気がする。

それが怖くて、奏は仕事に没頭した。

定時を過ぎると、逃げるように帰り支度を始めた奏を原田が捕まえた。

「付き合えよ。俺んち」
「いや、今日は……」
「いーから付き合え」

朝と違って、問答無用に引きずられた奏はいやいやながら原田の家へと連れて行かれることになった。

途中の電車の中で、まさみに今日は奏と一緒だと連絡した原田は、帰り道のコンビニでビールやつまみを買い込むと、むすっと不機嫌そうな奏を連れて3階建てのマンションに向かう。1階の奥の部屋が原田の部屋だった。

「な顔いつまでもしてんなよ。ほら、さっさと入れ!」

鍵を開けた原田に強引に部屋に押し込まれると、奏は上着を脱いでネクタイを緩めた。ここまで来てしまえば、原田を先輩としてたてても仕方がない。

「なんなんですか。一体?俺、原田さんちもはじめてですけど、わざわざ引っ張ってきてまでする話なんかないでしょ」
「あるから連れてきたんだろ。外で飲むより気楽に飲めるようにな」

そういって、自分もスーツを脱いだ原田は、ちょっと待ってろと言って、一人さっさとワイシャツを脱ぐとシャワーを浴びるといって、風呂にむかった。

– 続く –