風のしるべ 36

〜はじめの一言〜
原田兄貴が少しでも変えてくれればいいんだけどねえ
BGM:Believe in love
– + – + – + – + – + – + – + – + – + –

人の家で何をしているのかと思うが、原田が待ってろと言って消えた後、仕方なく奏は一人、ビールを傾けた。
無理やり連れてこられたこともあり、原田が買い込んだビールをすべて飲んでやろうというくらいの気持ちだった。

思いの外早く出てきた原田が、着替えを済ませて戻ってくる。

「お前、俺の分も残しとけよ」
「まだ全部はあけてませんよ」

初めは面倒くさいのと話したくないことで不機嫌になっていた奏も、飲み始めてぼーっとしていると、面倒くさいを通り越して少しだけ落ち着いてくる。

「ま、好きに寛いでていいぞ」

飯、食うよな、という原田は、男にしてはマメに台所で何かを作り始めた。
じゃぁっと盛大な油の音が聞こえてくる。

「原田さん、俺の世話なんかどうでもいいんじゃないですか。彼女のとこに行った方が」
「あー?聞こえねぇよ。すぐできるから待ってろ」

台所はすぐ隣なのに、怒鳴り返される。何もかもが面倒で、それ以上言うのをやめた。ビールの炭酸がこみあげてきて、口元に拳を当てる。一気に飲みすぎて、うぷ、と息を吐いた。

「ほい、お待たせ」

どん、とテーブルの上に皿が置かれた。湯気がたった皿に山盛りのチャーハンである。
目の前に置かれたそれに思わず沈黙で迎えてしまう。

「……なんだよ。うまそうだろ?」
「それは……。確かにうまそうですけど」

ごま油の香りと、何か不思議だが、うまそうな匂いがする。

「まず食え」
「いや、……ありがとうございます」

黙々と、箸を動かすと妙にうまくて、驚いた。

「原田さん、ありえない」
「あ?」
「うまいです」

思わず口をついてでた感想に原田がにやりと笑った。これがなぁ、と説明する言葉よりも、なんだか、本当に妙な気がする。

「なんだか……」

味がする、と思う。確かに味がして当たり前なのだが、今、自分が生きて、食べているものだという気がした。

「俺もなった」

ぼそっと呟いた原田はそれ以外は何も言わずに大盛りのチャーハンを平らげると、満足そうにビールを開けた。

「食べる時はあんまり一緒に飲まないようにしてんだ」
「飲んでるときは、結構食べますよね?原田さん」
「ああ。だから、食べるときは飲まない」

妙なルールだが、原田らしいと思う。そうか、と本当に腑に落ちた気がして、黙々と奏も食べ終えた。変に気持ちがわかるとか、お前の考えがどうのといわれるよりも非常に有効な先制攻撃である。

空になった皿が二つ並ぶと、原田は自然に立ち上がった。冷蔵庫から新しく冷えたビールを持ってくると、プルタブを開けてから奏の目の前に置く。

「お前、どのくらいなの」

さすがに言いづらかったのか、ぼそっと呟く原田が何を言いたいのかわからなくて物問げな目を向けた奏は、しばらくしてから、ああ、と思う。

「どのくらいって……。計りようがないでしょ。じゃあ、原田さんはどのくらいなんですか?」
「どのくらいって……、計りようがねぇだろ」

おうむ返しに返されると話はぴたりと止まってしまう。

「俺は、おまさのこととか、最後のへんとか、色々な」

確かにこれ以上先があるはずもない。自分が覚えているのは、しかも、原田よりずっと早い、もっと前のことだけのはずだった。

「俺は、普通に歴史の知識くらいしかありませんからね」
「……俺はまあ、なんでもいいけどな。別にいいと思うわけさ」

何がいいというのかわからなくて、はて?と首を傾げた奏に、原田はビールの缶をぺこぺこと指先でへこませながら笑った。

「古い、懐かしい友人がきたっつーか。そんな感じ。俺が今更、あいつの後悔をなかったことになんかできねぇし?俺は俺で、普通のサラリーマンだしなぁ」

何も言うべき言葉はなくて、ただ、奏は黙ってそれを聞いた。原田には原田の想いや後悔があって、それを今の自分が何もできるわけがないのは至極もっともで。

「そんな夢みたいな話、忘れていいんじゃないですか」
「……お前は忘れられんの?」

穏やかな笑顔の向こうで、その目が“原田”の目に見える。ぎくっと驚いた奏は、自分の中にいる自分に強烈に動かされる気がした。

「原田さん」

あの深い後悔を思い出したくないんです。
あの何もできない絶望感をもう思い出したくないんです。

膨れ上がった自分の中の何かが飛び出しそうになった直前で、カン、と甲高い音がした。

「お前、捕らわれんなよ。どんなに目を逸らしたいくらいでも、それは今のお前とは違う。今のお前じゃないからこそ、お前はあいつに寄り添ってやれんだろ」
「……寄り添う?」

間抜けなほど、ぼうっとしていたに違いない。間をあけてから奏は口の中で繰り返した言葉をもう一度頭の中で繰り返す。

―― 寄り添う?誰に?

『私は独りなんです。誰も傍にいない』

「ごほっ……っ!!」

喉につかえた何かで思い切り咳き込んだ奏は、ぐらりと床の上に転がった。原田は何も驚くことなくそれを見ている。
原田は自分の部屋の中でただ、何度も自分の一番親しい自分と向き合ったからこそ、ただ、黙ってその姿を眺めていた。

反動、というのとも違う。向き合った自分以上に、否定する奏はしんどいだろう。

受け入れればいい。認めなくても、反発だったとしても。

– 続く –