夕暮れ

〜はじめの一言〜
肌寒さは人恋しさにつながるんですよねぇ。これといったオチもないのですが、秋のある日の出来事でした。

BGM:Metis 梅は咲いたか 桜はまだかいな
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ゆっくりと大路を歩く。

セイは一人、屯所に戻るところで、往来の真ん中だというのに立ち止まった。
足早に家路を急ぐもの、店終いする小僧、家へ駆け戻る子供。あちこちから漂うのは夕餉の匂いだろうか。

夕日に染まった通りが、見る見るうちに濃い藍色に染め上げられている空と一緒に、暮れて行く。そんな町の様子に、セイは立ち止まってしまったのだ。

自分も、父や兄が健在だったら、今頃二人を急かしながら、夕餉の支度にとりかかっていたかもしれない。それとも、兄がお里を嫁にして、姉妹として、仲良く台所に立っていただろうか。

どのくらいそうして立っていたのかわからないが、溜息をつくと、セイはやっと歩きだした。

―― 私にはもう帰るべき家はない

少し歩いてはまた立ち止まって、通りと町を振り返る。心は帰るべき家をなくした子供のようだ。

一刻ほど前、些細なことからセイは総司に叱られた。誤解が招いたことではあったが、なぜかきつく叱られて、今日に限ってはセイも素直に引くことができず、自分は間違っていないのに、という思いから屯所を飛び出した。
巡察は午前で、稽古も済ませている。
こうして飛び出してあちこちを歩いていても、門限までに戻れば大丈夫、ということだけは頭に思い浮かべている。その自分に気づかずにこうしてぶらぶらと一人歩いていた。

本当につまらない誤解で、謝るだけ謝って、誤解を解けば総司も分かってくれるとは思う。
だが、この肌寒くなってきた秋の夕暮れが人恋しさを呼ぶのか、セイは素直にはなれずにいる。

そんな風に誤解されるのか。これだけ長く共にいて、ほとんどの時間を共に過ごしていても、所詮は一隊士でしかないセイと、総司とでは違う。

そんな思いが、よけいに寂しさを募らせる。

そろそろ日も落ちて、夕闇がその足を忍ばせ初めたのを見て、再びセイは歩きだした。

―― 今の私には屯所が帰るべき家なんだから

そう思い込もうとすればするほど、待つ者もいない、ただ身を置くだけの空虚な場所に思えてくる。

「寂しい……なんて言ったら、また怒られちゃうかな」

ぽつりと、一人呟きながらとぼとぼと歩く足取りは重い。門限まではまだまだ時間はある。どうにも帰り足が重くて、再び立ち止まった。

「こんなところで何をしている」

不意に声をかけられてセイは振り返った。そこには斎藤が立っていた。セイは、ほっとしたような泣き笑いのような顔で斎藤の元に足を踏み出した。

「なんだ、ひどい顔だな」
「あ、へへ、少し長い散歩をしていたので、冷えたのかもしれないです」

そういうセイの頬に斎藤は手をあてた。さらりと子供の熱を測るように触れた手が離れて、冷え切っていたセイの頬が一瞬だけ暖められた。

「本当に冷え切ってるな。あれからずっと歩きまわっていたのか」
「って、斎藤先生……」
「アンタ達はただでさえも目立つからな。あれだけ派手に言い合っていれば目につく」

話しながら斎藤はセイの肩に手を回して、歩きだした。

「……帰りづらいなら飲みにでも行くか」
「ご一緒してよろしいんですか?」
「構わんさ。好きなだけ飲んで、あの平目の悪口でも言うがいい」

泣き笑いの顔が今度は、半泣きと半笑いの間くらいの顔でセイは斎藤について行った。

 

「もぉっと飲んでくらさいよー。斎藤先生はぁ、お酒を飲んでも全然かわらないんれすねぇ。っひっく」

散々歩いたあとに、ほとんど何も食べずにセイは飲みだしていた。それを見ていると、食べる気にはなれずに、味も分からずに酒を飲んでいるように見える。

「何か食わんと、後が辛くなるぞ。お前はそんなに酒に強くないんだから」
「あはは、つよくないれす。ぜーーんぶ何もかもつよくないんれす、私」

笑っているようで笑っていない。
斎藤には、セイがなぜそんな風に寂しそうにしているのかはわからない。武士としてずっと育ってきた斎藤には、寂しいという感情さえ、冷静に自分を判断できてしまうからだ。

「もうやめておけ」

セイから盃を取り上げた斎藤は、膳を脇にどけてあらかじめ頼んでおいた茶を入れた。セイは斎藤がするに任せて、ぼんやりと外を眺めた。

「……夜は、いいですよね」
「そうなのか?」
「ええ。夕暮れ時は、忙しくしていないと、寂しい自分に掴まってしまいます」

寂しそうに言うセイに、何が寂しいのかと斎藤は問いかけた。

「叱られたからか?」
「いいえ……そうじゃないんですけど。たとえば、つまらないことがきっかけなんですけど、こうして夕暮れ時に町の中にいると帰りたくても帰るところがない切なさが沁みてきて戻れなくなりそうで……」

障子の向こうに見えるところどころ光る灯りと、家や店から漏れる灯りが寒空に余計に寂しさを誘う。
黙ったまま自分の盃に斎藤は酒を注いだ。くいっとあおると、喉を流れる酒がふわりと口の中に後味が広がる。その香気にセイのいう寂しさが混ざる気がする。

「帰るところはあるだろう?」
「ええ。分かっているんです。分かっているんですけど、もし違う道を選んでいたらどうなっていたかな、とか思ってしまうんですよね。私、隊にいてもまだまだ剣術も未熟ですし、先生方や皆と違って、私なんて替わりはいくらでもいる平の平ですから」
「俺には誰かが誰かの替わりになれるなんてことは思ったことがないな。そんなことを考える暇があったら稽古でもしたらどうだ」
「そうですよね。そうなんですよ。兄上のおっしゃることは……」

にこっと笑いながら言いかけたセイの瞳からぽろっと涙が零れ落ちた。

ふうっと息を吐いた斎藤は、セイの頭を引き寄せた。

「馬鹿だな。お前はお前だ。他に誰も替わることのできないただ一人の……」

途中まで言いかけて斎藤は胸元に引き寄せたセイの頭を無骨な手で抱えた。うっかりと零れてしまった涙を指先で拭ったセイが、斎藤の胸に手をあてて離れた。

「すみません。斎藤先生、気になさらないでください。つい、兄上と話しているつもりになって甘えてしまいました」

ふふっと笑ったセイが、いつもよりも女子に見えて儚さに抱き寄せそうになる。危うく言いかけた先を再び口にしそうになって、かわりに斎藤は酒で誤魔化した。
持ち上げてみてすでに酒が残っていないことに気づいた斎藤は、ぽんとセイの頭に手を乗せた。

「そろそろ帰るか」

帰る。

いつもなら、そろそろ戻るか、というところを斎藤がわざと帰るか、と言う。その心遣いにセイが微笑んで頷いた。セイのゆっくりと、ゆっくりと歩みに合わせて、斎藤もゆっくりと歩む。セイが持つ灯りがゆらゆらと揺れる。

あちこちの長屋や家の灯りがぽつぽつと消えていく。暗くなっていく帰り道に、斎藤はセイの手から提灯をとった。

「斎藤先生?」

ぐいっと引き寄せた肩に、セイは斎藤の顔を見上げた。セイの肩を抱き寄せたまま、斎藤はゆっくりと歩きだした。門限まであとわずか、屯所まであとわずかの帰り道が、どこまでも続けばしい。

―― 口に出しては味気ないな

「明日はまた晴れそうだな」
「そうですね。すごい空が晴れてますもんね」

屯所の灯りが近づいて、門脇の篝火が見えてくる。その灯りの下で、所在無げに佇む大きな影が見えて、斎藤がセイの肩に回していた手を離した。

「お前の帰る家の灯りだな」
「……本当ですね」

斎藤はセイの背中をとん、と押した。

「行って文句の一つも言ってやれ」

一歩先に押し出されてセイは斎藤を振り返った。頷いた斎藤に笑顔で頷き返すと、セイは急ぎ足で門に向かった。

明日になれば、またあの笑顔が見られることを思えば、このくらい何でもない。

門脇のところでじゃれあっている二人に向かって歩きながら、セイの切なさが斎藤の胸に移ったようで、ほろ苦さを噛みしめて手にしていた提灯を下ろした。
その斎藤に、大きな影と、小さな影がそろって手を振っている。

 

―― あれが俺にとっても帰る家か

同じ調子で歩きながら、影に近づいていく斎藤をかがり火の灯りが包み始める。鬼の住む家は、時に険しく、時にこうした夜には暖かく、賑やかに鬼たちを包み込んでいく。

– 終 –