天花 5 天花

〜はじめのお詫び〜
これにて終了〜。暗めに仕上がってしまいました……BGMのせい?
BGM:平井堅 瞳をとじて

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朝目覚めると、総司の手には昨夜のぬくもりが微かに残っていた。
小さな手が熱とだるさを取り去っていったらしい。起き上がると、ひどく体が楽だった。床の上に起き上がると、枕元に置いてあった刀を手に取る。

「神谷さん……?」

なぜ刀に手を伸ばしたのかもわからないまま、ぼんやりと周りを見渡してしまう。

確かに、昨夜ここにいたはずなのに。
夢だったのだろうか。

「沖田先生?起きてらっしゃいましたか?」

手伝いの者が、部屋を覗いて総司が起きていることにほっとした様子で朝餉を置いて出て行った。白い粥に鰹節の餡がかかっている。
京風の粥だ。

「懐かしいな……」

京都では何度も口にした味だ。何度も神谷さんに叱られながら、この粥を口にしたものだ。

食べられる限り、ゆっくりと匙を運ぶ。いつもよりは口にできたことも嬉しい。
ひどく久しぶりに感じる胸の温かさがひどく心地よかった。

食事を終えると、お茶を飲みながら昨日セイが座っていたあたりに目を走らせる。

確かに、夕べそこにいて、自分の額を拭ってくれたのに……。

ふ、と自嘲気味に口元に笑みが浮かぶ。

セイがこれだけ長く自分から離れるなんて、有り得ないと思っていた。いつか、隊を離れて幸せに、嫁に行くようにと何度も言ったくせに、その実は離れることなど思いもしていなかったと、今なら思う。

―― 神谷さん。貴女が幸せでいるのかさえ分からない状態で、こうしていることが自分には耐えられませんでした……

神谷さん。いいえ、セイ。
今どこにいますか。
元気でいますか。

私をもう、忘れてしまったでしょうか。

せめて夢の中だけでもセイに会いたくて、総司は横になると目を閉じる。

瞼の裏には、その先に広がっていた明るい日差しの中に、月明かりの下に、愛しいセイがいる。

総司の体から、生きる気力が指先から滑り落ちる絹のように抜け落ちていった。
そのまま、深い眠りに落ちた総司は、ふと人の気配で目を覚ます。

はるか昔、セイを探した後に挨拶した尼槽が、縁側の辺りに座っていた。
目を覚ました総司に、そっと近づくと、水差しから水を含ませてくれる。

―― そうか。

人の気配はこの人のものだけではなく、いつになく母屋の方がざわめいている。その気配に自分は眼を覚ましたのだった。

「いらして下さっていたのに、申し訳ありません。母屋の方が騒がしいようですね」
「こちらこそ、お休みのところに伺って申し訳ありません。伺ってもよろしい?」

そう言われて嫌だと答えることもない。
今の総司には何もないからだ。

「なんでしょう?」
「貴方は、まだ探していらっしゃるのですか」

誰を、とは言わなかった。何を、とも言わなかった。
総司も聞かなかった。

聞く必要がなかったからだ。
考えることもなくするりと口が開く。

「ええ……。たとえ、この身が儚くなっても、来世でもきっと探して、探して、あの人を見つけます。この腕の中にあの人を感じられるように」

持ち上げた腕は、もう昔のような力強いものではなく、筋ばって痩せ衰えたもので、自身の腕を見た総司が自嘲気味に笑った。

「こんな腕じゃ、あの人を守ることもできませんね。叱られちゃうな」

ぽつりと、零れた呟きとともに、腕がはたり、と落ちた。
尼僧が、目の前で手を合わせる。

「縁のあるお人同士なら、必ず、来世と言わず何度でも巡り合いますよ。それが御仏のお導きです」
「そうですね。……そうだといいなぁ……」

総司の眼は、尼僧から高い天井に向い、まるで来世を夢見るようだった。

それからいくらも語り合うこともなく、ただ黙ってその場にいないセイを思う。その時間は、愛おしいものを共有するための時間であり、いくらか総司の衰えた体に力を与えたようだった。

しばらくして、尼僧は暇を告げて去っていった。いつの間にか、母屋のざわめきも収まっている。

もうすぐまた夜になり、夢の中でなら、自由にあの人に会える。総司はそう思っていた。
すると、どすどすと足音を響かせて、松本が姿を見せた。

「沖田。塩梅はどうだ」
「松本法眼」

どうだと問いながら、互いにこの先をわかっている。ただ、今日の松本はあえて答えを待たずに、口を開く。

「すまねえ。夕方運ばれてきた患者をこっちに寄越してもいいか?」
「ここにですか?」
「ああ。お前と同じ病だ。もう長くはねぇ。せめて、最後の時間を心穏やかにさしてやりてぇんだ」

ここは、静かだからな。

人のざわめきも、いつにない松本の様子も総司にはどこか、自分から遠くに感じられる。

「そうですね。私もほとんど寝ていますし、その方が嫌ではないなら私は構いませんよ。お互い咳がうるさいかも知れませんけど」

こんな病もちの自分と同じ病室だなんてと思ったが、同じ病であれば、感染を防ぐためにも、母屋には置いておきたくないのもわかる気がした。

自分の病を茶化すように総司は答えた。松本には随分、世話になっている。

嫌だと思うはずもない。

だが、なぜかまじまじと総司の顔を見た松本が頭を下げた。

「すまねえ。俺の力不足ですまん……」
「何を謝るんです?松本法眼はこれ以上ないくらい良くして下さっていますよ」

笑顔で頷いた総司を見て、松本が立ち上がった。弟子たちに指示を与えると、すぐに母屋から、戸板の上に床を延べた状態でその患者が運ばれてきた。
総司と同じ向きで、少し離れた所に下ろされたその人は、眠っているのか、ぴくりとも動かない。

ああ、ずいぶん痩せているようだ。

自分よりももっと痩せた姿に単純にそう思った。

「……え?」

痩せて艶の失せた白い肌。こけた頬。ほどかれた髪を襟元で束ねている。
濁った肌と、開かれない瞳。色味を失った唇。

「さっき、運び込まれてきた。ここに来た時にはもう意識はなかった。……すまん。沖田」

運んできたときに付き添っていたのが尼僧だったということを、松本は苦り切った様子で話していたが、総司の耳には少しも届かなかった。

「……まつ……もと……?」
「着替えさせて、診察したが、骨と皮もいいところだ。これで生きているのが不思議なくらいにな。体中に、古い傷も新しい傷も無数にあった。せめてもう少し早く来ていればあと少しは……」

声もでない衝撃に息がつまりそうだ。

震える体に鞭を打つように、腕に力をこめて体を起こした。ずる……と床の上から這うように体を動かして、もっと近くににじり寄る。

かつての、ふっくらした面影は全くない。呼吸もしていないかと思うくらいの姿に、微かな息を確かめたくて震える指を伸ばした。

「すまん」

もう一度、松本が言った。その声は、医者というよりずっとその身を案じていた親代わりである松本の深い後悔と悲しみに溢れていた。

どうして。
なぜ。

もっと幸福に生きる道もあったはずなのに。こんな苦しみを抱えてまで。

そんな声も総司には届かなかった。すべての意識と神経が目の前の人に向かっていた。

指先に、かすかに感じる温度をもっと確かめようと、その首筋に手をあてた。指先に消えてしまいそうに脈打つ命の灯に、言いようのない感激が体を駆け巡る。

生きていた。

あれほど、何があっても枯れたようだった瞳から、涙が溢れる。

自身の体を支えていたもう片方の腕をあげて、ぱさぱさになった髪を撫でる。切り取られた髪なのかと思うくらい、傷んでぱさぱさになった髪から、病だけでなくいかに過酷な日々を過ごしてきたのかが伝わってくるようだった。

尼僧がセイを見つけたのも、ほんの偶然だったらしい。

町はずれの荒れた寺の片隅に小者が住んでいたらしい小屋があり、そこに住みついている者が病に冒されていると、町の者に聞いた。
もし生きていれば新撰組を追って、江戸に来ているはずのセイを探し歩いていた尼僧が、訪ねた先の荒れ果てた小屋の中で、筵にくるまって死にかけていたセイを見つけた。

急いで自分が宿をとっていた町まで取って返し、宿の者に離れに一緒に泊まらせてもらうように頼みこんだ。

病持ちと聞いて、いやな顔はされたが、すぐに江戸っ子ならではの面倒見の良さで、あっという間にセイを連れてきて、病間を設えてくれた。身を清めてやり、町医者から気休めと言われながらも薬を与えられて、ようやくセイは意識を取り戻したのだ。

「……翆月様」
「おセイちゃん、よう生きてはったね」

尼僧にも、この少女の身の上に起きた過酷な時間は見て取れた。もっと自分のために生きればいいものを、不器用なこの子は、自分を責めて、責めて、苦しめ痛めつけて、自分を慈しんでくれた、認めてくれた人々への罪をかかえて自分をひたすら罰してきたのだろう。

その時、太刀と金平糖を預かったのだ。どうか何も言わずに届けて欲しい。もう、自力では届けることができないのだと。
翆月はその願いを叶えてようとして、総司の行方を捜し歩いた。ようやく居場所が分かったが、見ず知らずに近い尼僧には、その警戒ぶりから近づくこともできない。

その間に、夜毎、眠るごとにいくらか回復していたセイの気力が失われ始めた。心だけが、肉体を離れ、総司の元へ彷徨っていたのだ。

もう、いつ儚くなってもおかしくなくなって、尼僧は思い立って松本のところへセイを連れてきた。医者ならば患者を前にして追い返すことはない。わけを話せば詰られるだろうが、何と言われようと、せめて最後の時をここで過ごさせてやりたかったのだ。
そして二人だけを残して、他の者たちは部屋を出ていった。

「ようやく、私の元に帰ってきましたね」

総司は何度も夢に見たその人に、語りかけるようにつぶやいた。その声が聞こえたかのように、運ばれてきてから、初めてその人が微かに動いた。

わずかに震えた瞼が薄っすらと開く。

それまで見知っていた天井ではない。ぼんやりとした意識が徐々に浮上してきて、自分が今どこにいるのかを認識し始めた時。

「神谷さん」

かつて、何度も呼んだその人の名を呼ぶ。嬉しそうに乾いた口元に笑みを浮かべて、まだ現と夢の境にいる少女が呟いた。

「……今日も贅沢な夢……」
「夢じゃありませんよ。セイ」

夢じゃありません。決して。

繰り返すように囁かれた声が、ゆるゆるとセイの心に沁みていき、その心を引き戻した。

「せん……せい?」
「お帰りなさい。神谷さん」

徐々に、信じられないものを見るように瞳が見開かれて、驚きがその顔に広がっていく。無意識のうちに、片手が上がり、確かめるように総司へと伸ばされた手を総司の手が掴んだ。温かい手が冷え切った小さな手を包み込む。

「私の元にお帰りなさい。神谷さん」
「ほ……ん、とうに……?」

本当に。お傍に帰ってきたのですか?

言葉にならないまま、瞳から涙だけがあふれて目元を流れる。その瞳に映る、愛する人はこの上なく優しい笑顔で頷いた。

「せんせ……、ごめ……な……さ……い」
「本当に。私にこんなに長い間心配かけて、ひどい人ですよ」
「ご……んな……さ……い」

紡ぐ声さえ苦しそうにしているセイに、自分の枕もとの水差しから少しだけ口に含むと、口移しでそれを飲ませてやった。

驚きに目を見開いたセイに、にこっと笑いかけた。

「可笑しいですね。久しぶりに会って貴女に口づけたのに」

それがこんな風に水を飲ませるためだなんて。

乾いたセイの唇は、かさかさになっていたけれども、総司には何より甘く感じられ、総司を癒した。
そうして、総司は自分自身も軽くはない体を持ち上げて、セイの布団を自分の床に引き寄せる。

さすがに自分自身の状態がどうかわからないわけではない。

ぴったりと引き寄せた床にその身を横たえると、さらにセイを自分のほうに引き寄せた。

セイの顔を見つめてからまだ物足りなさを感じて、隣り合わせた床の中から、総司の腕がすっかり軽くなった体をその腕の中に抱き締めた。

「夢じゃないですよね……」

腕に感じる重さも夢かと思うくらいに軽くて、その腕に収めた細い体を労わるように確かめる。力なく、その身を預けるセイは、流れる涙のままその眼はずっと総司を見つめている。

「……ずっと」
「はい」
「……お会いしたかったです」

弱った体だということを忘れそうになる。抱きしめる腕に込められるだけの力を込めて、ここにセイがいることを感じとった。

「どう……していたんですか?こんなに長い間。……ああ、無理しなくてもいいです。ただ、貴女の声が聞きたいんです」
「……私も先生の声が……聞きたかったです」

ぽつり、ぽつりと二人の間でどれだけの話ができたのかはわからない。

眠る時間さえ惜しむように、二人の間では埋めることができない時間をつなぐように、密やかな声がする。
夜が明けるころ。空が白み始めたその時。

「……神谷さん?……セイ?」

続いていた問いかけに、答える声が止まった。

眠るように閉じられた瞳。まだぬくもりを残した体。

最後の最後に、命がけで自分の元に帰ってきた少女。
総司は、強く、強く抱きしめた。

「せっかちですねぇ……貴女は。大丈夫ですよ。一人にはしませんから」

私もすぐにいきますから。

今度は、総司の眼から涙が溢れて、愛しさが心に広がる。

「ずっと一緒ですよ。生まれ変わってもずっと、ずっと一緒です……」

夜が明けて、様子を見にきた松本が目にしたのは、愛しい人の腕の中で眠るように逝った少女と、儚くなってもその体を離すことなく抱き寄せたまま、最後の命の灯をその涙とともに流して逝った男の姿だった。

――― もう神谷さんなんて呼びませんよ?セイ。
――― はい。沖田先生。
――― それもなぁ。。。。

――― ふふ、だって沖田先生は沖田先生ですよ?
――― 来世じゃ先生じゃないかもしれないですよ?

――― じゃあ、その時まで楽しみにしててください
――― やです。ちゃんと名前で呼んでください

――― …………じゃあ、……

– 終 –