水に映る月 8

〜はじめのつぶやき〜
先生も少し変わっていくんですよ。

BGM:嵐 Happiness
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荷物を副長室の隅へと置かせてもらい、セイは寿樹を抱いて久しぶりの部屋へと足を踏み入れた。
この部屋はほかの部屋に比べて、比較的、物が多い。特に書物の類が山につまれていることが多いのだが、入った瞬間、何かが違うと思ったセイはいつもならあるはずの山がないことに気付いた。

「お仕事部屋、移されたんですか?」

あまりに片付けられすぎて、仕事はこの部屋ではなくほかの部屋でやっているのかと思ったのだ。

「そんなわけあるか」
「はぁ……」

じゃあ、どうして、と言いかけたセイの目の前で、使い慣れた硯や筆の入った硯箱を取り出した土方は、おもむろに半間の襖を開いた。下には行李がきちっと収まっていたが、上にはどっさりと普段その辺に積まれている書物が収まっていた。

「お前らが来るのがわかってたからな。診療所にいるわけにもいかんだろうし、となればいる場所はここしかない」

セイが寿樹を連れてくるというのがわかっていたのでわざわざ片づけたのだ。這いまわることを覚えた子供の前に積んでおくような真似をする土方ではない。
申し訳なくなって、詫びを口に仕掛けたセイにぬっと目の前には紙と古い筆が差し出された。

「詫びてもらうような話じゃねぇ。それよりこれで遊ばせとけ」
「あり」
「礼もなしだ」

ありがとうございます、と言いかけたセイを遮った土方は、すぐ仕事の帳面と本を取り出した。文机に向かって腰を下ろすと、片手をあげて棚を差した。

「文箱をよこせ」
「はい」

紙と墨のついていない筆を寿樹に渡すと、セイは立ち上がって文箱を取り出した。もう一台、奥にしまってある文机を引っ張り出すと、土方の傍に並べた。棚の奥から古い硯箱を引っ張り出すと自分で、土方の手伝いをする支度を整える。

何を言われるよりも自然と体が動く。次に何をするべきか、何が必要か。

「あー、やー」

何かを書いたつもりなのか、筆を握った寿樹がにこにこと筆でなぞった紙を指さしてみてくれと笑っていた。頷いて微笑んだセイは、寿樹の頭を一撫ですると、墨をすり始めた。

「これと、これに返事を書いてくれ」
「承知しました」

文に添えられているのは走り書きの返事の内容で、それをうまく書けと言うことらしい。

―― 懐かしい

思わず、セイの口元に笑みが浮かんだ。返事を書く相手の文に目を通すと、自然と頭の中に代筆する文章が思い浮かんでくる。筆を手に取ると、袂を押さえてセイは、返事を書き始めた。

それを見た土方が、ふっと一瞬微笑んだ後、仕事に向かった。

さらさらと筆を動かす音と、時折動く衣擦れの音に、言葉にはなっていないが一生懸命何かをしゃべっている寿樹の声がしていた。

しばらくして、パチッと筆を置くと本を持って土方が立ち上がった。土方が部屋を出て行ってもセイは落ち着いて仕事を続けると、少しして土方が戻ってくる。

「一息入れろ」

盆の上には茶と、白湯と、菓子が懐紙に乗せられていた。顔を上げたセイがにこっと笑って頷いた。

「ありがとうございます」

手にしていた書類を文机の上に置いた土方は、文机を背に腰を下ろした。何か口にするものだと思ったらしい寿樹が這ってきた所をセイが抱き上げた。そろそろ、重湯を口にするようになっているので、白湯の入った湯呑を口元に近づけると、上手に白湯を飲んだ。

その様子を見ていた土方は、何かに満足したらしい。ゆっくりと茶を飲んでいた土方が、口を開いた。

「少しお前も成長したかと思ったが、もう少し総司を立ててやれ」
「……えっ」
「お前と一緒にいて、お前の事やお前が何をしたいのか総司がわからないと思ったのか?」

―― まったく、相変わらず野暮天なのはかわらんな

「もっと、お前が言い出す前からあれにはお前が仕事に戻りたいと思っていたことをわかっていたさ。だから、悩んだ挙句に、どうしたものかと相談にきたんだ。滅多にそんな真似をしたことがないあいつがな」

戻したくはないが、隊にとっても必要な医者であることはわかっている。だからどうしたらいいかと。

「ずっとお前の様子を見ていたが、寿樹を連れてきていても、隊務に支障は出さないだろうな。念のため、お前の補佐をつけることにした」
「補佐……ですか?」
「ああ。お里とかいったな。総司が話をしに行ったはずだが、正一もいるし、寿樹のお守りをするにはちょうどいいだろう」

驚くセイに、土方はすべてわかっているのだと言った。
てっきり説得にも時間がかかり、それでもだめだと言われても仕方がないとさえ思っていた。なのに、知らぬ間にすっかり支度ができていると言われてはどうしていいかわからない。

困惑しているセイにそれ以上何かを言うことなく、話はそれだけだと言うと、再び仕事に戻った。

 

 

 

 

結局、昼餉の頃になって、総司が隊務のついでにセイと寿樹を送っていくことになった。それ以上、長居をしていてはセイが来ていることが皆に知れてしまい、大騒ぎになってしまう。
支度をすると、セイは密かに裏口から屯所を後にした。

「今日はこれが終われば早く上がれるでしょう」
「わかりました。お気をつけて」

セイは総司を送り出すと、そろそろお腹が空いてきてむずがりだした寿樹をあやしながら急いで昼の支度をはじめた。

「お里さん、この前逢った時にはそんなこと一言も言ってなかったのに……」

つい先日もお里と会っていたはずなのに、お里は一言もセイにお守りを引き受ける話など口にはしなかった。知っていたならセイに一言でも教えてくれればよかったのにと思う。

その時も、セイは、仕事に戻りたいが許されないかもしれない、とこぼしていたのだ。

胸の内ではまるで、渦を巻いて二色の色が混ざり合っているようだ。認められて嬉しい気持ちと、知らぬ間に話が進んでいる居心地の悪さと、なんだか納 得がいかない気がして複雑な胸の内を吐きだすように、セイは眉間に皺を寄せたまま、ぐるぐると、寿樹のための重湯をかき混ぜた。

 

– 続く –