迷い路 35
〜はじめのお詫び〜
闇月庵、拍手でぽちぽち更新
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わざと逆方向へ走ってから原田達を巻いた柴田は、用心深く横道へ入ると、セイを抱き上げて天水桶の傍にセイの体を隠した。
近くにある駕籠屋へ少ししてからその先の辻に来てくれるように駕籠を頼むと再び天水桶の傍に戻る。セイの体を担ぎ上げると駕籠屋を待った。
駕籠屋が来ると、セイと自分がそれぞれ駕籠に乗って、柴田の家のある方向へと駕籠屋に頼んだ。
―― こんな人目もある昼日中に、顔をさらして逃げるわけがないだろう
原田のもとに総司が追いついたのと同じ頃、こうして駕籠を使って元の自分の家へと向かった。
この家は、新撰組に入り、落ち着いた頃に舞い戻っていたのだ。桜香の家は、罪人の家として、立ち入ることができなくなった後、化け物屋敷のようになり始めたために近隣の町役が取り決めて、家を取り壊していた。柴田の家は巧みに持ち主が変わったことにして、時折出入りするようになっていたのだ。
島原で桜香の客、それも武士ばかりを狙うようになった柴田の着替えや、後始末はすべてこの家があればこそ。
返り血を浴びてしまった着替えは庭先で燃やし、奪った金で新しい着替えを買う。それをこの家に隠しておいて、時折、西本願寺の床下の隠し場所に入れ替えていた。
家について、セイを下ろして家の中に運ぶ間、駕籠屋を待たせておいた柴田は家の中から隠しておいた金をとってきて、代金のほかに心付けをはずんだ。
「俺がその道だとは知られたくないのでな。ここに運んできたことは内緒にしといてくれ」
「へぇ。わかりました。旦那」
てっきり衆道を知られたくない侍だと思った駕籠屋は妙に多い心付けにも疑いを持たずにすぐ引き返していく。もともと近くにはほとんどといっていいほど家も少ない。顔を見られないうちにと、柴田はすぐ家の中へ戻った。
「う……」
物陰に押し込まれたり、駕籠に揺られたせいで、そろそろ目を覚ましそうな様子のセイを部屋の中にあった箪笥の中から取り出した腰紐で縛り上げた。
そうしておいて、奥の部屋に隠してある着替えや、床の間の床板を外したところに隠してあった盗み金を懐に入れる。すべての着替えを持って逃げるなどはなからできないことはわかっていた柴田は、残りの着物の中から手早く着替えを済ませた。
一度も屯所では着ていない柄を選ぶことで、追っ手の目を誤魔化すためだ。
すっかり支度を終えたころ、セイを転がしていた部屋からうめくような声が聞こえた。
「目が覚めたか。神谷」
「うっ……。あ、どこだ。ここは……」
まだ頭を殴られた時の痛みのままのセイは、ろくに身動きできない自分と頭の痛みに、ごろごろと左右に体を動かした。時間がなかったために、手を後ろに回してぐるぐると上体を縛っただけの姿なので、足は自由になる。
ごそっと動いて、自由になる足を使ってなんとか起き上がったセイは、頭を振って顔を上げた先にいる柴田に驚いた。
「あっ!!……柴田さん!その姿……」
まるで、どこかの大身の家来のような姿に驚くセイの目の前に柴田は屈みこんだ。
「驚いたか?悪いなぁ。お前も、俺になんて目をつけなきゃこんなことにはならなかっただろうに」
「……駄目です。戻ってください、柴田さん」
脱走がどういうことなのかわからないはずはない。生粋の武士である柴田にそれがわからないはずはないのだ。
だが、柴田はずっと演じてきた気のいい男の顔のままで苦笑いを浮かべる。
「今更戻ったからって、一緒だろ?どのみち、もうどうしたって変わらない」
「でも!それでも少しは考えてくださるかもしれません!私からも副長に申し上げます!」
「いいや。そんなことで変わるような人じゃないだろ。鬼副長は」
駄々っ子に言い聞かせるように言い返されると、セイもぐっと言葉に詰まってしまう。
それでも、総司から聞いていた紅糸のことや、柴田のことを考えれば何とかしてくれるかもしれない。そう願って何が悪いというのだ。
身を起こそうとして、縛られていることに今更ながらに気づく。乱れた袴の裾を足を動かして隠しながら身をひねった。
屯所の中で、普段通りの片づけをしている最中だったために、腰には脇差しかない。
「暴れるな。お前を殺そうなんて思っちゃいない。どうせ、お前は見つかって屯所に戻ったとしても、これじゃあ後ろ傷と同じ。お前も士道不覚悟で切腹だろう」
それもあり得ない話ではない。仮にも一番隊に名を連ねておいて、まんまとこうして人質になってしまったことを考えれば土方ならやりかねないだろう。
くっと、下を向いたセイに、今度こそ同情の視線を向けた柴田は腰を下ろすとセイに尋ねた。
「どうせここが知れるのも時間の問題だろう。逃げる前に聞いておきたい。お前は、いや、ほかに誰が俺のことをどこまで知ってる?」
「……紅糸さんが」
「あ?」
「紅糸さんが頼んだ相手って柴田さんなんでしょう?」
ああ、と呟いた柴田はずっと桜香の客のことを教えてくれていた妓のことを思い浮かべた。
「あの女がしゃべったのか。なら、鬼の副長もあの妓を抱いたってことか?」
「?!知って……?」
「ああ。俺があれを忘れることができないのと同じように、あの女も忘れられないのさ」
すべてを知ったうえで、紅糸を使って桜香の相手を聞き出していたのかと思うと、情けなさに涙が出てくる。
「そんな紅糸さんから聞き出した相手を、今までずっと?!」
「町人はどうしても金がないときだけな。あとは武士を狙う。あれが目指すのは太夫。太夫の相手ができるような侍じゃなきゃ、相手をする資格などない」
だからこそ、すべての相手ではなかった。斬られて戻らなくても不審に思われにくい相手ばかりを狙っていたからこそ、今までそれほど人の口にも上らず、取り締まりの話も上がらなかったのだ。
「そんなことをしたって……」
「あれに見合う男に俺が今更なれると思うか?そんなはずないだろう。ただ、俺はあれが上り詰めていくのを見ていたいだけだ」
目尻に浮かんでいた涙が、盛り上がって零れ落ちる。紅糸だけではない。柴田の想いも、悲しすぎてセイには苦しくてたまらなかった。
命を懸けてまで、そんなことをするなんて。
肩先で流れた涙を拭うと、セイはキッと顔を上げた。
「私なら、切腹になったとしても構いません。これは確かに士道不覚悟!でも、どうかお願いです!紅糸さんを助けると思って、屯所に戻ってお調べを受けてください!このままでは紅糸さんだって!」
紅糸もただでは済まないことはわかっている。人殺しを頼んだとなれば死罪は免れない。
「それも今更だろう?神谷。あの妓がしゃべったってことは本懐は遂げたはずだ。それなら死罪もあの妓にとっては本望だろうさ」
「そんなんじゃありません!紅糸さんは!紅糸さんは、事の恐ろしさに誰かに止めて欲しかったんです!だから……、だから沖田先生に話したんです」
それすらもどうでもいい、という顔で柴田は腰を上げた。
– 続く –