水の器 前編

〜はじめの一言〜
個人的には超速。表紙より。

BGM:小泉今日子 優しい雨
– + – + – + – + – + – + – + – + – + –

「神谷さん」
「はい」
「お願いがあるんですが……」
「なんでしょう?」

稽古の後に、井戸端で汗を流し終えてから、それぞれが好き勝手に過ごしているが、夕方までは一番隊は待機になっている。空いた時間に洗濯でもと思っていたセイは空模様を眺めて眉をひそめたところだった。

「明日の非番、ちょっと付き合ってもらってもいいですか?」

毎度の非番のお誘いに、セイが少しだけ困った顔をして首を傾けた。溜まりきった洗濯物に困っていたところなので、総司の誘いは嬉しいものの、困ったというのが本音だった。

「また甘味処ですか?先生」
「いえ、ちょっと遠出なんですけどね。実は嵯峨野の方へちょっと人を訪ねて行かなければならないのですが、気が重くて延ばし延ばしにしていたんです。でも神谷さんが一緒にいってくれたらいいなぁと思ったんですよ」
「そういうことでしたか。でも嵯峨野じゃちょっと日帰りでも随分かかりますけど」
「ええ。実は、局長に随分前に言われていたんですよ」
「何をですか?」

曖昧に笑みを浮かべて誤魔化した総司は、外出許可は私が出しておきますから、と行ってそれ以上詳しくは答えなかった。

翌日、近藤の部屋に立ち寄ってから隊部屋で支度を終えて待っていたセイを伴って、総司は屯所を出た。曇り空ながら雨の上がったところをぬかるんだ足元のために下駄を履いた二人は特別、急ぐわけでもなく、いつも通りの歩みで進む。

「よろしいんですか?遅い到着になってしまいますけど」
「ええ。顔さえ出せばそれでいいわけですし、こちらを出る時間は伝えてありますから、ずんと遅くに着くこともわかっているはずです」
「はあ。一体、どのような方にお目にかからなくちゃいけないんですか?」

会わなければならないという相手については、はっきりした言葉を避けて、総司は歩いて行く。嵯峨野と行っても嵐山にほど近い辺りまで行くには五条まででて西大路へと向かう。そこから二条城方面へ向けて歩いて行くと、左手に逸れた。

「疲れませんか?神谷さん」

総司と他愛ない話をしながら歩いてきたので、全くと答えたいところだったが、流石に喉の渇きを覚える。それに、全体稽古を終えてから出発したためにそろそろ昼を過ぎる。

「少し、どこかでお茶の一服でもしませんか?」
「良かった。じゃあ、こちらへ」

どこかいつもと雰囲気の違う総司が、いつもならばその辺りで目に着いた茶店に入り、二人で饅頭でも食べるところを一見して高級そうな料亭へとセイを伴った。

「ちょっ、沖田先生。よろしいんですか?」
「付き合ってもらっているのは私の方ですからね。美味しいご飯くらいご馳走させてください」

そういった総司が店に入って行くと、どうやらあらかじめ頼んであったようで、すぐに離れへと案内された。
少しの酒に、気の利いた料理が運ばれてきて、セイの顔がぱぁっと明るくなったのを見て、総司がくすっと笑った。

「本当に貴方ときたらご馳走のしがいがあって嬉しいですよ」
「そんな!もう、今日の沖田先生が変なんですよ。どうかなさったんですか?」

頬を膨らませたセイに、穏やかでただじっと総司が見返してくるので逆にセイがどぎまぎして顔を伏せてしまった。いつもならここでそんなことないとか、あるならあるでも何かを言うところなのに、ただひどく幸せそうな顔で見つめられるとどうしていいか分からない。

ぷっと吹き出す音が聞こえて、セイが顔を上げると総司がくっくっくと笑っていた。

「神谷さんだって、いつもの神谷さんらしくないですよ。ほら、大好きなお酒は少しにしてくださいね」
「誰がっ、大好きなってひどいじゃないですか」
「でも本当の事でしょう?はい」

総司の方から先にお銚子を持ち上げて差し出されると、セイは首を振った。

「こういう場合は沖田先生からです」

その言葉に一瞬、総司の手が止まった。そして、何かを思い浮かべるように目を閉じた総司に、不思議そうにセイが問いかけた。

「沖田先生?」

ふっと口元を緩めた総司は、膳の上にお銚子を置くと、セイを見た。

「神谷さん、すみません。もうひとつお願いがあるんですがきいてもらえますか?」
「なんでしょう?」
「本当に申し訳ないんですが、着替えを用意してありますので、向こうで着替えていただけませんか」

きょとん、とした顔でセイは立ち上がると隣の部屋へと続く襖を開けるとそこには乱れ箱に着替えが用意されていた。なんだか髪箱までご丁寧に準備されているのが気になってセイがそれを広げると、女物の着物だった。はっと振り返ったセイが見た先には総司がこちらを向いて頭を下げているところだった。

ふ、と息を吐いたセイは、小物などを改めて、腰から刀を引き抜いた。

「神谷さん?」
「わけがおありなんでしょう?なら、理由は後で必ず教えてくださいね。ちゃっちゃと着替えちゃいますから襖を閉めてください」

ふわぁっと嬉しそうに笑った総司は、必要なら店の女将に手を借りるので言ってほしいと言って襖を閉めた。確かに、髪箱にはかもじも揃えられていたが、これを一人で結いあげる自信はセイにはない。
とりあえず着替えるだけ着替えてからだ、と決めるとぱっぱと着物を脱いで畳んでいき、女物の着物へと袖を通した。

途中で着替え終わって元結いを外したセイが、髪を結うところだけ手を借りたいと言うので総司が女将を呼んでくると、きれいな女髪に結いあげられて、うっすらと紅をさしたセイが、隣りの部屋から現れた。

「お待たせしました」

それまで、酒をちびちび舐めて待っていた総司の手から盃が落ちた。ぽーっと上気したような顔で呆気にとられてセイを見ていた総司が、くすくす笑う女将が部屋を下がる声にはっと我に返った。

いつぞや、総司の見合いの時のセイもきれいに飾り立てられていたが、きれいすぎてどこか別人のようなよそよそしさを感じたものだ。しかし、今はいつものセイがきれいになって女子姿でそこにいる。
そのことに動揺した総司は、なんとか己を取り戻すと、じゃあ、食べちゃいましょうか、とぼそぼそ呟いた。

「沖田先生、召し上がっていてくださってよかったのに」

そう言って、セイが総司の隣に座ると、お銚子を手にとった。真横から酌をされて、真っ赤になった総司は、顔も上げられずに飲み干した。

「沖田先生?」
「な、何でもないです。ちょっと見慣れない姿なので上がってしまっただけです!」
「上がったって……」
「いいですから気にせずに食べちゃいましょう!」

そういうと、猛然と箸を動かし始めた。
余り似合ってないのかと、セイがつまらなそうにして膳に箸をつけ始めた。確かに以前の時は良家の娘に見えるような着物だったが、今日はどちらかと言えば町娘に近い。

せっかくの本当の姿に戻ったというのに、どこか寂しく感じたセイも、総司に負けずと箸を動かして口に運んだ。

「あっ」

青菜の小鉢を早々に片付けたセイが次の葛寄せを口に運んだ瞬間、思わず声をあげてしまった。

舌の温度を感じてとろりと形を崩したものが口の中に広がって、中に含まれていた細かく刻まれたものが口の中へと移動すると、舌の上に残ったのは柔らかな葛の小さな玉で。

舌先で押しやるとふにゅっと押されていく何とも言えない食感に驚いたのだ。

セイが上げた声に顔を上げた総司は、口元を押さえてその感覚を味わっているセイを見て、自分はものの味もわからないでいたことに初めて気がついた。女子姿のセイと、二人で差し向かいで膳をつつくことなど、なかったわけではないのにひどく緊張している自分が滑稽に思えた。

「ふ、ふふ。やっぱり神谷さんですねぇ」
「だって、これ、すごい美味しい」
「そうですね。こんな美味しいお料理、急いで食べたら罰が当たりますよね」

ふふと微笑み合った二人は、ようやくこれがおいしい、この餡がと言い合いながら楽しく食事を済ませた。

 

– 続く –