風のしるべ 19

〜はじめの一言〜
BGM:Believe in love
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もしもーし、と携帯から聞こえる声に我に返るのに随分時間がかかった。

「……すみません」
『いや。俺の方こそ悪い。変な寝覚めしてないか』

妙に気遣う声が聞こえて、原田らしくないな、と奏は苦笑いを浮かべる。こんな社会人一年生のような真似をして原田なら爆笑して、向こう3年は尾ひれがつきそうなことになるところだろうに、妙に声音が真面目だ。

「確かに、平日と間違うなんてなかなかいい目覚めでしたけどね。それよりどうしたんですか?原田さん、休みの日は昼まで寝てるクチでしょう」

独身で、これといった趣味もなければそんなものかもしれない。奏も、一応昼前には起きるが飲んだ次の日なら昼まで寝ていることも少なくない。

『ああ……。なんか無理にあの子押し付けて帰したみたいになったから、悪かったと思って』

ああ、と思うのは今度は奏のほうだ。昨夜の原田のはしゃぎっぷりを思い出すと思わず口元が緩んだ。

「だって、あんな原田さん見たら誰だってそうしますよ。でもね、原田さん。相手は大学生ですからね」
『お、おう』
「がっついた真似したら思いきり引かれますよ?まずはメールとか、ちょっと食事とかで親しくなるのが先ですからね」

まさか自分が偉そうにこんなことを言える立場ではないが、少なくともまさみの年代には自分の方が近い。原田のようにおちゃらけていて、実は真面目な男の方が実は不器用ではないかと思っていたのだ。

その懸念は当たっていたらしく、電話の向こうが急に静かになる。

「もしもし?原田さん?……まさか」
『阿呆。いくら俺でもそこまで飢えてねぇ!』

がん、と怒鳴り返されてほっとするが、これは逆によくない傾向だと思う。おそらく、年下の奏から珍しく説教されることになって逆に意固地になっただけで、それを思うと余計に心配になる。
原田は、仲のいい先輩というだけでなく、時折プライベートでも飲みに行くくらいには親しいのだ。

「わかりましたよ。そんな怒鳴らなくても……。まあ、でもメールも知ってるし、また声をかけたらどうですか。別になんてことないメールでも」
『俺のことはいいっての。あー!もうこんな話するつもりじゃなかったのに、お前のせいだ。今度奢れ』
「なんですか、その無茶苦茶な話。そういえば昨日の俺の分、払いますから!」

どさくさに紛れて原田が全額清算していたが、元々、奏の分は自分で払うつもりだった。

『んなこた知らねぇ』
「はぁ?何、本当にめちゃくちゃなこと言ってんです?」
『……とにかく、ちょっと気になtっただけだから。じゃーなっ!』

一方的に話を打ち切ると原田の電話はそこで切れた。気が付けば洗面の前で座り込んでずっと話をしていた自分がばかばかしくなる。
立ち上がると、携帯を置いて改めて顔を洗う。

―― まったく、原田さんは昔から心配性だから

水から顔を上げて、目の前の鏡を見た瞬間、奏はチューニングの合わなくなったテレビでも見ているような気がした。

「……?」

もう一度、濡れた手で顔を拭うと、違和感のもとは消え去って、変な寝方をしたからだと勝手に結論付けた奏は、乾いたタオルで顔を拭った。

携帯を見ると、見事に中途半端な時間である。

「仕方ない……。Yシャもたまっていたことだし」

掃除でもするか、と奏は部屋のカーテンを開けて、部屋の中に日差しを入れた。

通話を切った原田は、よかったのかわるかったのか、結局、自分がほっとしているらしいことに気づくのにしばらく時間がかかった。

「よかったんだよな……。うん」

自分のように、ある日突然、過去の自分が現れる羽目になどならなくてよかった。
時折、旧知の友人のようで、時に亡霊のように付きまとう。

物の少ない部屋の中で、表の明るい陽射しはカーテンで閉め切ったままで目の前に浮かぶ、総髪の男の姿を見つめる。現実にそこにいるのではなく、原田の頭の中にだけ描かれているはずだが、向こう側が透けている亡霊は、ひどく満ち足りた顔でそこに座っていた。

きっちりと正座した姿は、滅多にない。

正式な場でなければ、胡坐をかく方が好きだった。

「なぁ。なんでそんな顔してんだよ?あんたは……、後悔することがあるからでてきたんじゃねぇの?」

自分自身に向かって語りかけるのも馬鹿らしい気がするが、自分であって、自分ではない相手だけにわからないのだ。

記憶は、細胞の一つ一つに刻み込まれていて、ふとした瞬間に顔を見せるが、それは今を生きている原田の昨日と何も変わりない。昨日と同じ過去の出来事でしかないことは、当然普段は思い出さないことが多い。

だから真剣にわからないのだった。

「普通、前世なんか覚えてねぇだろ?でも……あんたは確かに俺だ。それだけはわかってるからさ」

関係ないなどというつもりはなかった。知らぬと突っぱねる気もない。
平たく言えば、過去の自分を知りたくなったのだ。

思いがけない拍子に顔を見せて、急に今に現れた自分を知りたい。

「あんた、なんでそんな幸せそうな顔をしてんだよ?」

…… それは幸せだからじゃねえの

はたから見れば立派な自問自答で変質者にくくられそうだが、原田にとっては目の前のテーブルを挟んだ向こう側に確かに武士がいた。

その相手が、原田とそっくりな顔でにやりと笑う。

…… 俺は、今もそこそこ馬鹿なのかよ。このくらい分かれ

「!……ふ、ざけんな」

怒鳴りつけるつもりが、ふにゃっと尻すぼみな声になる。自分自身に怒鳴っても仕方がないからだ。

「馬鹿でもなんでもかまわねぇよ。教えてくれよ」

さっさと白旗を上げた原田に、行儀よく、ぴしりと座っていた過去の自分が、腕をくむことで初めてその姿を崩した。

– 続く –