風のしるべ 18
〜はじめの一言〜
BGM:Believe in love
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「先生?」
しばらくして、背中をさする手と同じくらい優しい優しい声が耳に届く。
「ずっと以前、初めて松本法眼に診ていただいた時のことをおぼえていらっしゃいますか?」
「……あの、お里さんの家での……?」
「ええ」
ずっとセイの胸にしまってきたことを、内緒話でもするようにセイが耳元で囁く。
「沖田先生は、嘘つきだなぁって思ったんですよ。私。ああ、しゃべらなくていいですから。私が勝手に話してますから」
咳を思い出させないように総司の口に手を当てて塞ぐ。汚れた口元を拭うのと同じくらい自然にセイの手が総司の唇に降れた。
「……先生は、あの時死ぬことにはもともと覚悟があるっておっしゃったじゃないですか。でも、私には嘘だって思えてしまったんです」
少しだけ総司が顔を動かして、セイの方を見ようとすると、総司の口元にあった手が動いて目隠しをしてしまう。背中にはまだセイの温かい手が当たっていた。
「きっと、先生がいつか死ぬことを覚悟されたのは本当だと思いますし、剣を手にしていれば当然だと思います。でも、あの時から先生は死ぬことが怖かったんじゃないかって……。そう思うんです」
「……どうして」
短く問いかけた言葉は、まるで胸の内を見透かすようなセイを責めるような口調だったが、セイは気にする風もなく、少し笑ったようだった。
「だって、先生。役に立たなくなることが怖いっておっしゃってたじゃないですか。それすなわち、死ぬのが怖いってことですよね?」
死んだら役に立てませんからねぇ。
くすくすとセイは笑っていたが、総司はセイに目隠しされたその陰で、驚きに目を見開いていた。
たった、今の今まで、自分でも気づいていなかったことを引きずり出された気がする。
誰よりも、孤独だった総司を助けてくれた近藤の役に立ちたい、土方の傍で戦いたい、セイを守りたい。
そのすべてができなくなることが怖かった。
手の上から滑り落ちていく絹のように。はっきりとこの手に感じられていたものが、するり、するり、と滑り落ちていくのが。
「でもね。先生。人は、いつか死ぬんです。早いか遅いかの違いだけで、私も同じように」
「な……っ!あなたは!こんなところから一刻も早く離れて、幸せになるんです!」
「幸せですよ。今でも。私は私のいるべき場所でやるべきことをやっているんです。この上ない幸せです。それでも、……いつかは死ぬ。それが人なんです」
―― 違う!あなたは、あなただけは幸せになって、ずっと長生きして……!
叫びそうになった総司は、喉に感じた咳の予兆にふっと息をつめた。一瞬で強張った体に、セイの手が背中の真ん中から少しずれたところをぐっと押した。
「……っは」
「駄目ですよ。無理に息をつめたらますます咳き込みます」
はあ、はあ、と乱れた息をする総司が落ち着いてくると、今度は総司の頭をゆっくりと撫でながらセイは続けた。
「だから、死ぬことは怖くはないんです。いつか来る、明日のようなものですから!それに……」
ふふ、と嬉しそうにセイが笑って、その先は秘密だという。どうしても先を聞きたがった総司が拗ねた顔を見せると、しかたないですねぇといって、総司の耳元に口を寄せた。
二人しかいないのだから、普通に話していてもいいはずなのに、内緒話をするように声を落とす。
「いつだったか、私が手を切った時、先生が舐めてくださったじゃないですか。それに、私も先生が怪我をされたとき、手当させていただきました」
さすがに、自分も舐めた、とは言いづらくて言い換えたセイは、人差し指を立てて見せた。
「そういうのって、血の交換といって、西洋ではその……契り、いえ!血の盟約というのだそうです。ずっと傍にいるっていう強い意志をもってその絆ができたら未来も切れることはないって。だから……、だから未来でも私と先生は出会うので、どちらが先に逝くことになっても怖くないんですよ」
未来で必ず出会いますから。
「……かみ、……やさん」
髪を撫でていたセイの手を掴んだ総司は、ゆっくりとセイを振り返った。
そこには澄み切った初めて出会った時と何も変わらない笑顔があって。どれだけ泣いたかしれないのに、その笑みには一欠けらの濁りもなかった。
「来世でも私は、先生のお傍に参ります。ですから、先生は安心してこの神谷に面倒を見させてくださればいいんです。その分の貸しはきっちり返していただきますから」
馬鹿な、と言いそうになる。
一番、心残りになるに決まっているのに。近藤も土方も彼らは男で、武士だから。
でも、この手は……。
―― もし、来世でもあなたに出会うとしたら
手に入れて二度と離さないか。
一生、傍にいないかのどちらかだと思った。
ピピピピ。
頭の片隅で、携帯のアラーム音を聞いて奏は頭の中の記憶を探った。
―― ああ。そうだった。疲れて、億劫になってそのまま床で寝てしまったんだ
薄目を開けて、煌々と部屋の電気までつけっぱなしだった自分に舌打ちをしながら、なり続ける携帯を探す。スーツのポケットに入っていたことを思い出して、しぶしぶ起き上がって時計を見た奏は頭から冷水をかぶった気がした。
「く、9時半?!」
完全な遅刻だと青くなって、Tシャツを脱ぎ捨てると、なり続ける携帯を掴んだまま洗面にかけこんだ。顔を洗おうと、洗面台の上に携帯を放り出してから気づく。
それはアラームではなく携帯の着信だった。
「もしもし!?申し訳ありません!」
『あー。俺。寝てるところ起こして悪いな』
「えっ?」
なぜか電話の相手が原田だということにますます混乱した奏に向かって、ああ、と電話の向こうがわで事態を察したらしい。のんきな声が聞こえてくる。
『悪りぃな!こんな [休みの土曜日] の朝っぱらに電話しちまってよ』
「やす、み?……どよ……」
そうだった、今日は土曜だったと我に返った奏は、がっくりとその場にしゃがみこんだ。
– 続く –