風のしるべ 21

〜はじめの一言〜
BGM:Believe in love
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「うぉっ?!」
「んぎゃぁぁっ」

大声で叫ばれた原田が驚いて仰け反っていると、慌てたまさみが水滴のついていたプラスチックカップから手を滑らせて足元にばしゃっと落とした。

「あ、あ、ああああ……」

履いていた服にしみこむ勢いでかかってしまったラテを少しでも落とそうと、ショートブーツの足を慌てて振り回しながら、塞がった手をどうしていいかわからなくなる。

駆け寄ってきた原田が唖然としてその恰好を見た。

ぼさぼさの髪をひとまとめにして、薄い化粧の顔に教科書やノートの入った麻の大きなバック。
どちらかといえばあっさり、シンプル、といえば聞こえはいいが、あまり身なりには構っていないように見える。

「まさみちゃん、何やってんの?」

あーあ、と呟きながら原田はポケットから出したハンカチで、まさみの足元を拭いてやりながら行き場に困っていたプラスチックカップを持ってやる。

「だって、手が滑って、急いでて……」
「慌てすぎだろ。何やってるかなぁ」

とりあえず、こぼしたラテの始末が先だと思って、その場からまさみを少し離して拭けるだけ拭うと、そのハンカチをまさみに渡した原田は、植え込みの傍にあるベンチにまさみを座らせた。

「これ、とりあえず捨ててくるからちょっと待っててな」

そういって、ビルの中へと駆け戻っていく。 しばらくして、戻った原田は、まさみの目の前に立って、手を差し出した。

「お待たせ。とりあえず、場所変えようさ。ここじゃ、さすがにちょっと……」

職場の目の前で女子大生と待ち合わせていたというのはさすがに分が悪い。そう思って、まさみをつれてどこか店にでもと思った原田の手が、そのままぐいっと引っ張られる。

「おっと!」
「あの!どういうつもりであんなこと言ったんですか?!」

自分が向かいかけたのと逆方向に引っ張られてバランスを崩した原田は、噛みつくような勢いのまさみに目を丸くした。

「……はい?」
「だ、だからっ!絶対!からかってるんだと思うんですけど!いきなり……つきあおう、とかっ」
「ああ……。えぇ?!それを聞きたくてわざわざここにいたのかよ?!」

呆れるのも通り越す気がして、ぶっと吹き出す。くっくっく、と笑いが止まらなくて初めは口元に拳を当てていただけだったが、気がつけば体を二つに折る様にして笑っている。
いくらなんでもそこまで笑われると馬鹿にされているような気がして、顔から火が出そうなくらい赤くなる。ただでさえ恥ずかしくて仕方がないところに、これだけ笑われると、もはや逆切れとしか言えないくらい頭に血が上った。

「ば、馬鹿にしてっ!!やっぱりからかってたんですね?!」

もういいです!と、涙目になったまさみが鞄を肩にかけなおして立ち上がる。

―― 悔しい。悔しい!悔しい!!

今にも泣きだしてしまいそだったから、強く唇の内側を噛み締めて逃げる様に歩き出した。

「待てって!……待ちなさいよ」

のんびりした声がつんのめる様に歩いて行くまさみの後ろから聞こえてくる。脇に鞄を挟んでスーツのポケットに手を突っ込むというスタイルはかわらないが、大股で歩み寄ってきた原田がすぐにまさみに追いついた。

「まーさーみちゃん?ちょっと話、聞かねぇ?」
「聞かない!」
「そういわずにさ。わざわざ、話をするために待っててくれたんだろ?じゃあ、少しくらいおっさんのハナシも聞きなさいよ」

呑気な口調は変わらないが、隣を歩きながら覗き込んでくる顔が緩みきっている。それがますます馬鹿にされていると誤解したまさみの涙腺が、口を開いたために防波堤を乗り越え始めた。

「不細工な女だと思って、からかって、馬鹿にして!」
「からかってねぇし、馬鹿にしてねぇよ」
「馬鹿っ!アホっ!」

そんな風には見えなかったが、やはりちゃらちゃらした軟派男のおふざけだったのかと思うと、悔しすぎて泣けてくる。軽く滲んだ程度では済まなくなってきて、仕方なく立ち止まったまさみは、親指の付け根を使って目尻から頬に流れた涙を拭った。
ビジネス街の広めの歩道を歩く人波が、時折、ちらりと投げかける視線が痛い。

車の音にかき消されたが、何か小さく原田が呟くと、まさみの腕をとってゆっくりと歩き出した。

引っ張られるまま、しばらく歩いた先でこじんまりした居酒屋に入った。店の入り口でも泣いた後のみっともない姿を見られたくなくて、俯いたままだったまさみは、原田に連れられて、小さな個室に腰を下ろした。

案内してきた若い店員に生ビールとウーロン茶を勝手に頼んだ原田は、二人用の狭い個室の小さなテーブルに片肘をついてどっぷり落ち込んでいるまさみを見た。
小さ目のデーブルに両肘をついて、顔を覆っているまさみに何も言わず、上着を脱いできゅっと襟元に人差し指を入れてネクタイを緩める。
すぐに、おしぼりと一緒に、飲み物とお通しが運ばれてきた。

「ご注文、お決まりでしたら」

明るく声をかける店員に、決めたら呼ぶ、と笑顔で伝えると、アツアツのおしぼりを広げた。

「まさみちゃん。おしぼり」

くるっと巻いてあったおしぼりを一度広げると、湯気が上がって少し熱が下がる。手の上からは顔を上げたまさみにそれを握らせると、自分はもう一つのおしぼりで手を拭いた。

温かいおしぼりで目元を押さえたまさみの頭を、手を伸ばしてぽんぽん、とたたく。

「落ち着いた?そういや、さっき濡れたとこもついでにおしぼりで拭いときな」

言われてから、ああそうだった、と思い出す。はーっと大きく息を吐くと、顔を押さえていたおしぼりで足首のあたりを軽く押さえた。
べたついていたので、濡れたおしぼりはありがたい。

おしぼりを置いて、まさみが顔を上げるまで待ってからグラスを押し出した。

「んじゃさ。ひとまず、それ飲んで落ち着こうや」

今更、店に入って腰を下ろしていて嫌だとごねても仕方がない。素直にジョッキグラスに手を伸ばすと原田の方からビールの入ったグラスを当ててきた。

「お疲れさん」

ガラスが当たった音にしては低い音がして、にっと笑った原田が、ぐいっと一息にビールをあおった。ビールジョッキの半分ほどが一気になくなって、泡の名残が、グラスの内側に張り付いている。

「じゃあ、まず誤解してるみてぇだから言っとくけどな?俺はまさみちゃんをからかったこともなければ、不細工だと思ったこともねぇ。これ、マジで。その証拠におっさんもこう見えて非常に恥ずかしい」

にっと笑って、残りのビールも二口目ですべて空になる。原田にしてみれば、この年になって、まじめに正面切って話すには照れくさすぎてとても素面ではいられないというところだ。

「そんなの、わかんないじゃないですか!それに不細工だって思ってないなんて嘘!」
「嘘じゃねぇって。本当に疑り深いよなぁ」

少しばかりはれぼったくなった顔に皺を寄せてじっと睨みつけられた原田は、ポリポリと頭を掻いて、テーブルの呼び出しボタンを押した。

– 続く –