風のしるべ 28

〜はじめの一言〜
BGM:Believe in love
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残業していた奏のもとにメールが届いた。

“こんばんは。今日で短期集中講座も最後です!今日も、お時間ありますか?”

切り上げようかと腕時計を見たところだったので、ちょうどいいと、パソコンを落とした。残業といっても、このご時世であまり遅くまで残っていられるわけではない。効率よく、定時時間内にこなしていかなければならないのだ。

駆動音が響いたあと、ファンの止まる音がして電源が落ちる。ほかの者たちはとうに帰っていて、鞄を手に立ち上がった奏も、奥のハンガーから上着を取ってくると携帯を胸にしまって部屋を出た。

エレベータホールで下を押している間に携帯を取り出す。

“お疲れ様。今から会社を出るところです。今日のお腹は?”

文面を打つだけ打ってからその中身に、ぶっと自分で吹き出してしまった。きっとメールを見たら頬を膨らませて怒るだろうと思いながら、エレベータに乗る前に送信ボタンを押した。

二週間という短期集中講座を未生が受けている間に、四回ほど夕食を一緒に取った。

初めの日に携帯のアドレスと番号を教えてから、次は未生が帰る間際に電話を寄越した。もうすぐで家に帰り着く寸前だった奏は、場所を聞き出すとすぐに向かった。
次からは、遅くなる日にメールを先に入れてくれと言って、二度。今日が三回目でどうやら最後になるらしい。

自分が楽しみにしていることも、ひそかに今日で終わりかとがっかりしていることも、奏にとっては自分を落ち着かなくさせることで、頭の中から追い出そうとする。

何を食べさせようか、最後だというなら何か、と考える端から浮かれている自分を自覚してしまう。

一階に下りた奏はそのまま駅に向かって早足で急ぎながら、今から電車に乗れば何時につくかを考えている。

―― まいったな

年下はまだしも相手は女子高生だ。本気になるなどありえないと思っても、話をする時間が楽しい。

「……っと」

電車がホームに滑り込んでくる瞬間に、携帯が鳴った。マナーモードの振動がメールの着信を知らせて、かち、と電車に乗り込みながらメールを開くと、怒った顔文字が並んでいた。

“食いしん坊みたいに言わないでください!和食の定食屋さんがいいです!”

未生と何度か食事をするようになって、うっかりしていたと思うのは若い女性だからもあるのだろうが、食事をたくさん食べることや、食べたいものをはっきり言うことなどをからかうとどうやらNGらしいことだ。食べ過ぎれば太るというし、デザートをすすめても、遅い時間だから太るのでやめるという。

未生などはどう見ても細く見えるし、女子高生ならそこまで気にしなくてもと言いそうになって、思いとどまるまでに何度かレッドカードを切られそうになった。

“じゃあ、駅前で”

そう短く返しそうになって、ふと手を止めると、改行をたくさん入れてから続きを打つ。

“……待つよりも先につきそうなので、予備校の傍まで行きます”

最後くらいはいいだろう。
送信ボタンを押すと、今度こそ携帯をしまう。

くるくると表情が変わる未生は、初めのうち、話が通じないと奏が決めてかかっていた思い込みをすぐに壊してくれた。

どこかで引き返さなければ。

そう思うほどには、楽しいと思ってしまう奏がいた。

電車が家の最寄駅に着くと、改札を出る。行き違いにはならないだろうが、一応、以前未生が予備校から駅まで歩いてくるといっていた道を使って予備校に向かう。

時間からすれば、週のおわりでもあるだけに、アーケードの下の賑わいはいつもよりも多い。

大手予備校のビルの前まで行くと、少し離れた歩道のガードに寄り掛かった。

ぱらぱらと入り口から出てくる人の数が、時間を過ぎるとどっと増える。にぎやかに友達同士で騒ぎながら出てくるもの、一人で教科書か何かを手にして出てくるもの、皆それぞれだった。

てっきり制服で来ているものだと思っていた奏は、グループの陰に紛れて近づいてくる未生に気づくのが遅れる。

「沖田さん!」
「うわっ」

唐突に目の前に現れた未生に組んでいた腕を解いて飛び上がる。

「何もそこまで驚かなくても……」
「いや、だって、富永さんが急に来るからですよ」
「失礼な。突然沸いて出たわけじゃありませんよ」

そうですけど、ともぐもぐ言う奏にぷっと未生が笑い出した。奏がわからなかったのも無理はない。今日の未生は、私服に着替えていたからだ。いつもの学生鞄に予備校用の教科書を詰めているわけではなく、ショルダーの鞄に詰め込まれて未生の肩にかかっていた。

「ちょっと、驚いただけですよ。さ、行きますか」
「富永?」

未生と肩を並べて、さてと歩き出そうとした奏の背後から声がかかった。振り返ると、未生と同級らしい、男がたっていた。

「なに?馬鹿村」
「馬鹿村じゃねぇよ!中村だっつーの!」
「馬鹿村でしょ。今日も間違ったくせに」
「うっせ!こんちくしょー」

未生と若い男との会話をさりげなく顔を背けた奏は、聞くともなしに会話が耳に入ってきていた。

「それで?何の用?」
「用っていうか」

そこで言葉が途切れて、気になった奏がちらりと振り返るとその男子高校生と目があった。

「このオッサン、何??」
「おっさんって失礼でしょ!」
「お前、この頃遅い講義の日に男と帰ってるって見たやつがいるんだよ」
「はぁ?!何言っちゃってるの?」

今度ははっきりと眉間に皺を寄せた未生が奏をかばうように立ちはだかった。帰り時間の重なる学生立ちが通りすがりにじろじろ眺めていく。

「こんなおっさんと付き合ってんのか?」
「こんなって失礼でしょ!?沖田さんはバイト先の会社の人で、この辺に一人暮らしらしいから帰りに食事を一緒にしてもらっただけ!」
「嘘いうな!たかがバイト先の人間がわざわざバイトしに来たやつのためにこんな予備校に迎えに来るか?!」

周りの視線や二人の会話を聞いていると、どうやら同級で、未生は中村という高校生から好かれているらしかった。

―― なるほどね

淡々とした顔で、黙っていた奏は、ふっと視線を逸らした。

– 続く –

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