風のしるべ 37

〜はじめの一言〜
BGM:カサブタ
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どれだけ倒れていてもいい。あの頃と違う時間は、寛容に流れている。

そう思って、ビールを傾けながらつまみでもと、渇き物を口にしていた原田はだいぶ間があいてからぽつりときこえた奏の独り言を拾い上げた。

「ずっと、独りでしたね……」

あの頃は。
誰もが独りでいたからこそ、それぞれが、そして彼らとして戦うことができた。
そして、一人、また一人と欠けて行っても最後まで戦うこと。

我こそがと最後まで旗印を掲げた男がいて、各々がその身に背負った役割を全うしていった頃。

一人、その戦いから病のために脱落した奏の記憶は、己を全うした皆とは格段にその苦しみが違う。なぜなのか、答えのない世界は取り返しがつくわけでもないだけに、ただ、余計に客観視する奏を痛めつける。

「今知ることができる誰かの生き様なんて、全然違うかもしれないじゃないですか。きっとそこにあった本当なんてわからなくて、これも夢なんだと思うんです。なのに、ひどく生々しい……」
「夢でもなんでも、俺達の中にいる俺達にはそれが現実だからだろ」
「こんな現実なんていりませんよ」

吐き出すように言った言葉に馬鹿だなぁと、同じくらいに淡々とした呟きが返ってくる。

「今の俺達の現実じゃないだろ。俺は、まさみに会って普通に一目惚れしたんだよ。それをあいつが喜んでくれた気がする。そっちが俺の現実」

だから原田は、初め、奏と同じように拒絶していた左之と呼ばれた男を受け入れた。同じ女に惚れた自分達が、久しくあってなかった古い友人のような気がして、自然に受け入れられた。
今と過去とは違う。何に縛られることもなく、自分はほんの偶然を逃さずに、出会うことができた。

「たとえば、奏。なんでお前は思い出した?」

それは、未生に会ったから。
出会って、初めは気づかなかったのに、ほんの偶然から回を重ねるごとに、楽しくて可愛くて、年齢差を感じるほどに自分に縛りを設けるほど。

より鮮明になった夢。

最後のよりどころであり希望だった彼女。
なすべきことよりも優先させるべきではないと思っていても、彼女の笑顔が、彼女の前に進む姿勢が、総司の根幹を支えてくれていたから。

「今の俺に、何ができますか?彼女は女子高生ですよ。仕事しかないんです……。結局、あの頃と変わらないのかな」
「……無理矢理何かしろとは言わねぇよ。俺が勝手に考えるだけだけどな。どうあがいても、自分がどう思ってても一人で生きてるわけじゃねぇ。誰かに動かされることも、どうしようもない流れに動かされることもあるんだよ」

―― だから悩まなくていい。ただ、見ないふりをして逃げるな

誰しも、自分自身からは逃げられはしない。自分の、一瞬、一瞬の決断によって未来を選ぶだけだ。言い訳のきかない未来は、誰のものでもない。

頭では、活字として整然と並ぶ言葉は、身に沁みこむにはひどく硬質すぎた。代わりに、ただ、酔いつぶれるためだけに飲む。
見かねて、途中からは原田がビールではなく安いウィスキーをロックで持ってきた。

延々飲んだ後。
酔い潰れた奏は、まるで溺れたように息苦しさを覚えていた。そのまま暗闇の中で途方に暮れた自分と向き合う。

『無理はしなくていい。目覚めてしまった私は過去に沈む影でしかないんです』
「何……」

何をいきなり言いだすのかといいかけた奏に向かって、まるで子供をあやすように総司は穏やかな笑みを浮かべていた。

『だから、そんなに辛くならなくていいんです。それは今を生きている私が背負うものじゃない』
「……」
『じゃあなんでって言うんでしょうね。それは私も思う。ただ、何も知らないはずなのに、彼女に会って惹かれた。自制しようとどうしようとそれは確かでしょう?』

惹かれたりなどしていない。そもそもの出会いは仕事なのだ。
幾度かアルバイトと、雇う側の社員として会って、確かに仕事ではいい子だと思った。仕事を任せるのに信頼できるとも。ただそれだけのことだ。

『あの姿勢は変わらない。昔も神谷さんはまっすぐで、若くても冷静に物事を判断して』
「だから惹かれたと?」

真っ暗な闇の底からゆらりと同じ顔をした男が浮かび上がる。
心が折れそうな記憶ばかりなのに、その顔は笑っているからなおさら胸が痛む。なのに、その男は穏やかに微笑んでみせた。

『さあ。それは単なるきっかけで、傍にいれば惹かれずにはいられない。そういう人でした』
「……笑顔なんですね」

ずれた問いかけのような気がしたが、きっと自分なら伝わる。なんの裏付けもない自信で投げかけた問いに、着物の前で腕を組んでいた男が小さな声を上げて笑った。

『大丈夫。私は武士ですから』

忘れてもいい、と男は呟いた。自分は過去の産物で、今を生きる私には不要なものかもしれない。ただ、後悔しない道を進むための一助になればいいだけだ。

「後悔、してるんでしょうか。神谷さんの手を離したことを」
『手を離したのではなく、離さなければならなかっただけです。私に、あの人を連れて行くだけの弱さもなく、ただ優柔不断に流されただけです』

それもまた一つの判断ですけどね、と自嘲気味に付け足されると、ますます奏にはわからなくなった。
出会うことに意味があるのか、あるならそれはなんなのか。

『彼女と話してみるといい。気が済むまで』
「そんなつもりは……」
『あくまで私の提案ですよ。するもしないも自由です』

言うだけ言って、無責任だと責めたくなったが、総司の影は再び暗い闇の中に溶け込んで行ってしまった。
残された奏は、重い体を持て余しながら呟いた。

「……まさか」

目が覚めた時、寝汗と、二日酔いに襲われた奏は、自分でも笑いそうなほどぐだぐだだった。

「ひどいな。どのくらい飲んだんでしたっけ?」
「お前ひとりでほとんどそれ、あけた」

とっくに目を覚ましてゆっくりと風呂を使った原田が、テレビを眺めている。
頭を押さえながらテレビの音で目を覚ました奏は、何度もなかなか目が開けられなくて、何度も目元を擦った。

「学生の頃以来ですよ、こんな酒の飲み方……」
「だろうなぁ」
「原田さん、なんで止めてくれなかったんですか」

目が覚めたらこうなることくらいわかりそうなくらいの酒量である。せめて、ほどほどにしておけと止めてくれればよかったのにと泣き言をぶつけた奏に、しらっと原田は煙草をくわえた。

「んなの、面倒くせぇから酔い潰したにきまってんだろ」

ごちゃごちゃ説明しようが何しようが、本人が腑に落ちなければどこまで行っても変わらないからだ。
スポンジにぐっしょりと水を染み込ませたような頭を振って起き上がった奏は、せめてと差し出された水を一息に飲みほした。

「わからなくもないですけどね。原田さんらしいですよ」

はぁ、と呆れたため息をついた。

– 続く –