旅立つ者

〜はじめの一言〜
祭り準備中に生まれた山崎さんです。ちょっと悲しい感じですね。
BGM:FIND AWAY
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「お父ちゃん、先に寝て。ウチ、喜助さん戻るの待つわ」
「……そうか。ほな、先に休ましてもらおか」

床伝の室内は暗く、行灯も最小限に抑えられている。遊里などを除けば普通の家ではもうとっくに休んでいる時間だ。
しかし、どの家も灯りを落としてはいるものの、連日連夜、息を殺して外の様子に気を配る。もう、国をめぐる事態は切迫を極め、日に日に状況が変わる。
薬屋喜助こと、山崎もほとんど戻ってこない日が幾日も続いていた。

「もう、戻ってこられへんのかもしれへんなぁ」

ポツリと伝六が呟いたのをおみのは聞かなかったことにした。そんなことは山崎を見ていればよくわかる。
日を追うごとに、次はもう戻らない覚悟で家を出て行く後姿が、目に浮かぶ。

 

かた。

 

微かに裏口のほうで音がして、何度目かの気のせいだろうと思いながらも、おみのは立ち上がった。風の音で板戸が鳴るのにもつい、反応してしまうのだった。
しかし、今回は当たりだったようだ。

「なんや。まだ寝てへんかったんか」

そっと音を立てないように裏の戸を開けたところから、頬被りをした山崎がぬっと頭を覗かせた。息を飲んで一瞬動きが止まったおみのをよそに、体を滑り込ませた山崎はすぐに振り返って辺りの様子を伺った。
後をつけてくる者がいないことを確認してから板戸を閉めて、頬被りを取ると疲れきって青ざめた顔が笑った。

「はよ寝ないと、別嬪さんの顔が台無しやぞ?」

こんなときなのに、山崎はいつものように軽口を叩くと足を引きずるようにして部屋へ上がった。おみのは黙ってその後ろ姿が中二階の隠し部屋に消えていくのを見ていた。

小ぶりな盆の上に小さな猪口と徳利にたっぷりの冷酒を注ぐ。小鉢に漬物を少し入れて、箸を添えるとそれを持っておみのは、中二階の山崎のところへ上がった。
普段、おみのはこの長火鉢の傍の押入れに隠された階段を上ることはない。途中、階段に手をつきながらおみのは中二階に顔を覗かせた。

薄暗い行灯の灯りの中で、山崎が小さな火鉢に何かをくべている。文箱に残している物以外を次々と途切れぬように燃やしていく様を見て、ああ、と思う。

ついに、その日が来たのだと。

「……なんや、はよ、寝たらええやんか」

おみのを振り返りもせずに山崎が言う。畳の上に置いた盆を滑らせると、おみのは山崎の傍に近寄った。

「もう……。駄目なん?」

何が、とは言わなかった。あえて言うならすべてが。

 

もう終わりなのかと。

 

目の前で燃えていく文を見ながら、山崎がふっと笑った。

「おみのちゃんが心配することなんか、あらへんよ」

言葉とは裏腹に、伝わる真実がある。おみのは火鉢の上の赤い炎を見ながら、呟いた。

「……もう、ここには戻らんのやね」

夜が明ける頃には、またここを出て行く。近藤達が向かう先に山崎がついていかないはずがない。
山崎から返る言葉はなく、それが“はい”、でも“いいえ”でもない答えだった。
残っていた見られてはまずい書類をすべて燃やし、最低限の持っていく着替えと荷物。

目を伏せたおみのが一向に去る気配がないのを特別、構いもせずに、淡々と山崎は部屋においてあった荷物を片付けていった。

「酒、もらおか」

しばらくして、一段落ついた山崎は何事もなかったようにおみのが持ってきた、小さな盆を引き寄せた。山崎が徳利に手を伸ばしたのとほとんど同時におみのも手を伸ばし、徳利を手に取ると、猪口へ酒を注いだ。

「ウチは、物覚え悪いから喜助はんが出ていかはったらみんなすぐ忘れてしまうわ。新撰組の事も、山崎て名乗ったお人のことも」
「はは。そらええわ。その方がえぇ。おみのちゃんは強いからなあ」

軽く笑いながら答えた山崎が猪口を口に運んだ処に、おみのが急に倒れこむようにしてしがみついた。山崎の手から猪口が落ちる。

「……すぐ忘れる。二度と思い出さへん」

しがみついているといっても二人の間はそれなりに空間が開いているのに、皺になるほど握り締められた肘の辺りから想いが流れ込む。

「阿呆なことしたらあかん。おみのちゃんは、これからなんぼでも幸せになるんやから……」
「なんで……、なんで今まで散々言うてきたのに、いざとなると駄目なん?!」
「そら、俺が弱虫だからや」

行灯を背にした山崎の顔は、薄暗くてよく見えない。声音だけが優しく響く。爪が痛むほど強く握り締めたおみのの手をやんわりとほどいて、両の手で包み込むと、ぽんぽんとあやすように叩いた。

「前やったら、喜んで飛びついたかも知れん。だけど、今は、おみのちゃんを抱いてしまったら、俺はどこへも行かれんようになる。それが怖いんや」

それで引き止められるならおみの本望だと思った。引き止められなくても、山崎の中に自分を刻み付けることができたなら。

「……っ!」

唇を掠めるように温かいものが触れたと思った次の瞬間、おみのは鳩尾に衝撃を感じた。ずるりと横向きに倒れこんだおみのを片腕で引っ張った布団の上に寝かせた。上から掛け布団をかけてやると、山崎はおみのの頬を優しく撫でた。

懐から小ぶりな柘植の櫛を取り出すと、山崎はそれをおみのの髪に刺して、すっと身を引くと行燈の明かりを吹き消した。ひとまとめにした荷物を持って、階下へと降りる。きしむ音で気がついたのか、初めから起きていたのか、階段を下りたところで伝六が戸を開けて待っていた。
山崎は苦笑いを浮かべて、長火鉢の傍へと座った。

伝六が火鉢の火をおこしており、熱い茶を入れる。

「ゆかれますか」
「ええ。もう、戻らないでしょう」

 

本当は“戻れない”のに。

これから彼らは追われる身になるのだ。狩る者から狩られる者へ。

 

「最後に思いをかけてやってもよろしかったのに」
「親御はんのいうことやありまへん。こんな、いなくなる男に」

それでも、おみのの気持ちも、山崎の思いも伝六には手に取るようにわかった。
熱い茶を一口すすった山崎は、その疲れ切った顔に思いのほか穏やかなものを浮かべていた。

「俺は、幸せだと思う。この新撰組におった日々が何よりやったと思う」

まだ、この先も戦い行くはずのその顔には、満足気なものが浮かんでいて、伝六は逆に寒々としたものを感じた。
まるでもう何もかも終わってしまったかのような顔。

「それでも行くんか」

伝六の答えを求めない問いかけに、山崎は頷いた。

「昔、副長はんが言うてはったわ。新撰組は夢やて。楽園なんやて。その主には局長はんがいて……」

ずずっ、と茶をすすると、断ち切るように湯飲みを置いた。
まるでいつもの薬の荷を担ぐように、荷物を手にすると、山崎は裏手に向かった。かたん、と戸締りをしていた心張り棒をはずすと、わずかに板戸を空けて表の様子を伺う。
大丈夫だと判断した山崎は細めに板戸を開けると、最後に振り返った。

「ほな、行って来ますわ」

いつもの顔でまだ暗い表に出て行った山崎の後姿に伝六は手を合わせた。
もう、戻ることのない身にむかって。いつか再びを願って。

―― ご武運を

 

– 終 –

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