暁闇 2

〜はじめのお詫び〜
徐々に距離が縮まるらぶらぶをどうぞ~
BGM:鬼束ちひろ 目眩
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オートロックの鍵をあけて、ロビーを通り抜けるとエレベーターで最上階に上がる。

家財道具がないままの部屋に、買い揃えるくらいならば、自分の家に来ないかと言われて、悩んだ挙句にその言葉に従ってから三か月。

なんでも好きに使ってと言われても、なかなかそうもいかない。
結局、玄関脇の総司の書斎扱いだった部屋を理子の部屋にと譲られた。リビングに置いていたソファがベッドにもなるタイプのものだったので、それも理子にと移動していた。

居候とも同棲ともつかない微妙な空気にようやく慣れてきていた。 お互い、定刻で働く仕事ではないだけに、お互いの予定はその都度伝えている。今日も夕食というには随分遅くなるのがわかっていたので、遅くなることと食事をとって帰ることは伝えてあった。

端の部屋の前にたどりつくと、鍵をあけて中に入る。ふわりと温かい空気が包み込む。

玄関から入ってすぐの部屋に荷物と上着を置くと、静かに奥の部屋に向かった。

明りはついているのに、ひどく静かなのでそっとリビングを覗くとピアノの上に腕を置いて眠っているらしい。足音を忍ばせて、そっと近づくと目を閉じて眠るその顔を久しぶりに見た。
いつも総司は理子が帰って来るまで起きているし、朝も理子よりも早く起きている。だから、理子は総司の寝ている姿をここにきて一度も見たことがなかった。

穏やかな顔で眠る総司を見た理子は、周りを見回して理子が置いたひざ掛けを手に取るとそっとその肩にかけた。椅子の端に少しだけ腰を掛けて総司の寝顔を覗きこんだ。

―― 初めて見た

なんだか嬉しくなって、くせのある髪に起こさないように指先で触れた。
その手の下で僅かに瞼が揺れる。

「きゃっ」

理子に気づかれないように伸ばした腕がぎゅっと理子を引き寄せた。理子が総司の肩に顔を寄せた形になって、慌てて理子が体を引いた。

「……お帰りなさい」

我慢しきれずにくすくすと笑いだした総司に、理子が膨れた顔を向けた。

「もうっ!!またからかいましたね?」
「だって、帰るってメールをくれたのに寝てたりなんかしませんよ」
「それにしたって!……お茶!入れます」

総司の手を振り払って理子はキッチンに立った。
他のことはいまだに仮住まいの様子でなるべく総司のこれまでの暮らし方を変えないように気をつけていたものの、キッチンだけはどうしても料理をする頻度が高いのは理子の方なので、少しだけ好みのものを揃えさせてもらっている。

かしゃん、と音をたてて火をかけると、引き戸の向こうに並んだお茶を眺めて手が止まる。理子の背後から手が伸びて、その中の一つをひょいっと目の前に差し出された。

「これがいいです」

ちょっとだけ悔しくて、それを手に受け取ると、なにも言わずにティーポットを手にして茶葉を入れた。総司がえらんだお茶は理子が好きなお茶で、総司のようにブラックコーヒーを好む人にはあまり好かれないのを知っている。
だから帰ってきて、お茶を入れようと思ってもいつもそれではないものを選ぶか、コーヒーにしてしまうのを知っていて、わざと総司がそれを選んだことも分かっている。

総司がピアノの前に戻って行ったのをみて、理子はティーカップではなく、マグカップを手にした。音をたてるお湯をティーポットに注ぐと、マグカップの片方にだけ少しのミルクと砂糖を入れた。

ティーポットの中で琥珀色に変わるところを見ながら、初めの方をミルクの入っていない方へ、終いの濃く出た方をミルクの入っている方へ注いだ。同じお茶を入れたマグカップから違う香りが立ち上る。

二つのカップをもって、リビングの隅の小さめのテーブルの前に座った。理子に譲られたソファの代わりに、理子の部屋から持ってきた小さめのガラステーブルが置いてある。
テーブルに置かれた二つのマグカップに、総司が笑いながら声をかけた。

「ひどいな。お茶に誘ってはくれないんですか?」
「知りません。私は勝手に飲んでるだけですから」
「じゃあ、もう一つのマグカップは?」
「知りません」

この部屋に住むようになって、総司が時々からかったり悪戯をする度に、理子が怒ったり拗ねたりするところが、徐々にでてきて、それが嬉しくてつい繰り返してしまう。借りてきた猫のようだった理子が、少しずつ慣れて素直になって行くところが総司には嬉しくて仕方がない。
歳の差も変わらない理子が、今は大人の女性であってもこうして時折本当に素直に拗ねたり怒ったりするところが可愛くて仕方がないのだ。

「飲んでもいいですか?」

理子の目の前にしゃがみこんで、もう一つのマグカップを持ち上げた。二つのカップの中身が違うことも、すでに気がついている。甘い、甘いミルクティは総司が好きなスイーツの代わりだ。

「お好きにどうぞ」
「ありがとう」

本当に嬉しそうに笑う総司に、理子が少しだけ赤くなって、そっぽを向いた。総司は、カップを置くと、理子の片手をとって、いつものようにその手を愛おしそうに撫ぜる。

「今日はどうでした?ちょっと先の仕事のリハでしたっけ?」

お互いが近しい仕事でもあり、仕事の中身もよく話している。理子は、ちょっとだけ眉の間に皺を刻んでから、まあ、普通です、と答えた。

「苦手な人が伴奏なんじゃありませんでしたっけ?」
「苦手というか……ちょっとだけ得意じゃないだけです。いつも浮之助さんと一緒に組むわけじゃありませんし」
「よほど駄目なんですね」

そう言われて、今日の苦々しい思いがよみがえる。伴奏の彼女は、きれいで美人の評判も高い。気位も同じくらい高いので、奏でる音も自分が絶対だと言わんばかりで、理子はどうしても好きになれなかった。彼女の音に従うのがどうしても苦痛なのだ。

ふう、とカップから漂う香りに頭を切り替えた。

「悔しいです。今の一橋さんの寝顔、初めて見たと思ったのに」
「なんだ。そこに話を戻しますか。寝顔くらい一緒に住んでいるんだからいつだって見られるでしょう?」
「そんなことないですよ。私よりも早く起きてるし、私がいくら遅くなるので先に休んでいてくださいってお願いしても起きて待ってるし、見る機会なんてありませんよ」

不満なのか、そうでないのかわからないことを理子が口にすると、総司が口元を押さえた。

「なんですか?私、変なこと言いました?」
「いえ、また意地が悪いと言われるのでやめておきます」
「それも意地が悪いと思いますけど」

明らかに笑いを堪えている総司に、面白くなさそうに理子が言い返すと、仕方ないなぁと呟いて、向かい合って繋いでいた手を軽く引いた。
少しだけ前に体を倒した理子の耳元に、総司が囁く。

―― 一緒に寝ていれば寝顔くらいいくらでも見られますけど?

かぁっと赤くなった理子が総司の手を振りほどこうとして、どうしても手を離してもらえずに総司を睨みつけた。

「意地が悪い」
「だから言ったじゃないですか。黙ってようと思ったのに」

赤くなって、どこか不安げな目の色に、総司は理子の手を離して諸手を挙げた。

「はいはい。なにもしません。約束ですからね。だから怯えないでくださいよ。悲しくなるじゃないですか」
「い、一橋さんが変なことを言わなければ」
「だって、貴女のことを大好きですもん。ずっとね」

それを聞いた理子が、ますます困ったような顔になるのをみて、総司は立ち上がった。

「じゃあ、私は先に休みますね。お風呂でもゆっくり入って、嫌なことは忘れてゆっくりお休みなさい」

はっと顔を上げた理子が慌てて後を追うように立ちあがった。怒らせてしまったのかと思ったものの、何と言っていいのかわからない。総司の服の端を掴んでしまってから、ぱっと手を離した。

「あ、っと。ごめんなさい……。なんでもないです。おやすみなさい」
「うわー…。そんな顔しないでくださいよ」

俯いてしまった理子を苦笑いを浮かべて総司は軽く抱きよせた。俯いたまま、総司の胸に額を寄せた理子の頬に、軽くキスする。

「少しずつ、この部屋の匂いに貴女の匂いが混ざってきて、すごくどきどきしますよ。ただのシャンプーの香りだったり、香水の香りだったりなんでしょうけど、部屋に入った瞬間に堪らなくなるんですよね。嬉しくて」
「……ごめ……んなさい」
「なんで謝るかなぁ。嬉しいだけなのに」
「だって、その、住まわせてもらってて……」

顔を上げた理子に、総司は笑った。そして、ゆっくりと頬から唇へと移動する。
軽く触れ合わせただけのキスのまま、総司が囁いた。

―― いつか、ちゃんと一緒に住んでるって言ってくれればもっと嬉しいですよ

ぎゅっと一瞬強く抱き締めてから、総司は理子を離した。顔を伏せたまま、理子は自分が借りている部屋へと戻りかけて、くるっと振り向いて戻ると総司の体をぎゅっと一瞬抱き締めた。

「…――……」
「えっ」
「お休みなさい」

ぱっと身を翻す様にして理子は自分の部屋へ戻って行った。残された総司は耳に残る理子の声に、頬を染めて口元を押さえた。

―― もう少しだけ待ってください。寝顔見られるまで

「それは……反則ですよ……。眠れないじゃないですか」

はぁ、と溜息をついて、総司はテーブルの上で二つ並んだカップを恨めしそうに眺めた。

– 終 –