〜はじめのつぶやき〜
ついに始まってしまいました。
BGM：Metis  ずっとそばに
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須田は、事務方とも調整し、まずは学校の数日間の休校、そして生徒や関係者への連絡を取ることにした。会議には、講師陣を除く全職員が参加していたために、会議が終われば各自調整にかかる。
病院の手配、そのほかやることは山積みだったが、須田のメインの業務は講師陣のとりまとめである。

スタッフルームへ向かった須田は、丁寧に状況を説明した。

「生徒さんの何人かに疑わしい症状の方もいます。ですが、レントゲン検査などでわかるのは疑い、までです。菌の培養には1か月かかり、確定診断はそ のあとになるそうです。しかし、疑いがある場合はもちろん、適切な対応をとらなくてはなりません。先生方にもこれから全員、病院へ行って検査を受けていた だきます」

きっぱりした須田の説明は迷いがなく、ほとんどがほかにも仕事を持っている者が多い中でも、てきぱきとした説明に文句を言いだすものは少なかった。

関係各所への連絡時に必要な書類や文面は学校側で用意すること、また業務に付けなくなった場合の、援助等は全面的に学校側がバックアップすることになった ことを伝えると、不安な顔をしてはいたが、とりあえず皆頷いた。それぞれに連絡が必要な関係者、また必要なバックアップの申し出をまとめて提出することに なって、あちこちに電話を始める者、メールを書き始める者とそれぞれに動き始めた。

「須田さん」
「はい」
「神谷さんにもこれから連絡ですか？」

須田も、総司と理子の関係は当然知っている。ただ、朝からこの騒ぎですっかりと頭から細かい気遣いが飛んでいたと、自身に舌打ちをしながら頷いた。

「すみません。先にお知らせすべきでしたね」
「いいえ、お気遣いさせてすみません。でしたら、あの人には事務所の方へ先に連絡をしてもらえませんか。北沢さんという女性が担当の方です」
「わかりました。一橋さんからじゃなくていいんですか？」
「ええ。私は、私の仕事のほうの連絡がありますので、お手数かけますが」

淀みなく答えた総司に、須田も慌ただしく頷いて事務室のほうへと駆けていった。総司はスタッフルームに戻ると、自分の席のところへと荷物を移動させて、自分の仕事関係へ連絡を始めた。

朝早くから仕事に出ていた理子は、年末に向けて大きめのコンサートのスケジュール調整をしていた。たまたま事務所の打ち合わせスペースにいた処に、電話だと北沢を呼ぶ声がする。
呼ばれて北沢が席を外すと、手帳に細かいスケジュールを書き込んでいった。

思ったよりも時間がかかるなと思っているところに、急にマスクをつけた北沢が使い捨ての白いマスクを手に戻ってきた。

「神谷さん、今すぐこれつけてください」
「何？」

疑問符を投げかけながらも理子は素直にマスクを手にして身に着ける。真剣な顔で北沢はすぐに支度をして一緒に出てほしい、と言い出した。

「なんなの？どうかした？」
「途中で説明します。とにかく急いで支度していただけますか？私、ちょっと上の方に報告に行ってきますから」
「あ、うん……」

慌ただしくまた打ち合わせスペースを出て行った北沢を見ながら、理子は首をひねって手帳をバックにしまった。支度と言っても今日は夕方から学校でのレッスンが一つあるだけなので、荷物も少ない。
軽く上に羽織っていたショールとバックを手にすると、ひょい、と打ち合わせスペースから顔を出した。

何やら真剣な顔で北沢が上司の者と話し込んでいる。理子の姿を見ると、話を切り上げて北沢は自分の鞄を手に事務所の外を指差した。それを見た理子も事務所の入口の方へと向かう。

「ね、どうしたの？」
「まずタクシーで病院まで行きます」

ぴたりと事務所をでてオフィスビルの廊下に出たところで北沢が足を止めた。

「タクシーに乗る前にお伝えしておきますね。学校の生徒さんで結核の疑いがある生徒さんが出たそうです。それで、学校は臨時休校、スタッフ、職員の 皆さんは全員、病院での検査を受けることになったそうです。私も神谷さんとご一緒してますので、これから一緒に検査に行きましょう。神谷さん、いいです ね？」
「あ、うん」

どこか上の空で北沢に頷いたが、急に自分が一人、すりガラスの向こうに追いやられたような現実感のなさに呆然としていた。

誰が？
どうしたって？

北沢が止めたタクシーに押し込まれた理子は、ぼんやりとしたままタクシーの中の広告をじっと眺めていた。視界に入ってはいるが、内容は一文字たりとも頭には入ってこない。

―― 結核って……労咳？

頭の中をぐるぐると同じ言葉が回る。
どうしてだろう。
なんでだろう。

答えがあるはずもないのに、何でとかどうしてしか考えられなかった。
学校の近くには大きな大学病院がある。学校側がそちらと話をつけたらしく、病院について受付に向かうとすぐに外来受付から奥の検査のほうへと案内された。

床の上にはたくさんの方向を示すためのビニールテープが張ってあったが、ある境を越えるとそこにいる職員のすべてがマスクをしている。

北沢にしても、こんな経験は初めてだが理子の心理的な動揺を考えると不安を表には出せないでいる。今は薬があってちゃんと治るし、仕事だって何とかなると自分に言い聞かせるので精いっぱいだった。
検査のための待合には学校側のスタッフで、須田が待機していた。須田の挨拶に北沢がとにかくほっとしたようだった。

「北沢さんと神谷さんですね。須田です。お世話になっております」
「ソーレ音楽事務所の北沢です。先ほどはご連絡ありがとうございます」
「とんでもない。こちらこそご迷惑をおかけしております」

互いに事務的な挨拶を済ませると、北沢が詳しい話を聞き取り、必要な書類を須田に求めた。互いにメモを交わして、すぐどちらも手配するということは言い交す。

「それで生徒さん以外のスタッフの方々はいかがですか？」
「正確な結果は1か月しないとわからないそうなんですが……。やはり出てほしくなかったんですが、こちらの中にも疑いのある方が何人かいらっしゃいます。お二人にも詳しくは後程、検査の方や、お医者様から説明があります」
「わかりました」

理子はぼんやりと待合のソファに身を沈めていた。そこに並ぶ人たちにも見知った顔がいたが、互いに反応ができないでいる。検査されることにも頭がついていかない。

呆然と座り込んでいる理子に須田が近づいた。

「神谷さん。沖田さんという方が、しばらくしたらいらっしゃるそうです。その方も検査は受けていただきますが、問題なければお二人ともご一緒にお帰りになれますよ」

須田の言葉に理子がゆっくりを顔を向けた。

「どうして……」

どうして帰れるなんてわかるの。
どうして沖田さんと一緒なの。

 

困った顔をした須田は北沢を振り返った。微かに眉を顰めた北沢に、須田はもう一度理子の方へと向き直った。

「もう少し待ってくださいね。検査が終わったら先生から説明がありますから」
「待って！！……待ってください。一橋さんは、もう検査が終わったんですか？」

躊躇を見せた須田は一呼吸置いてから、淡々と告げた。

「一橋さんは結核の疑いで入院です」

がたっとソファから立ち上がりかけた理子が何もない足元に躓いて、須田の手に支えられた。
呼吸が浅い。

ぐらりと理子の体から力が抜けて倒れ込んだ。慌てて手を貸した須田と、北沢が近くにいた看護婦に声を掛けた。

「神谷さん！？」
「すみません、誰か」

駆け寄ってくる看護婦達に言われて、須田が診察室へと理子を運んだ。

–　続く　–