逢魔が時 11

〜はじめの一言〜

全力ダッシュですね。もう駆け足です。
BGM:一青窈 ハナミズキ
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理子は、ある決意を固めていた。この前、総司の姿をみて怯えて、走り去ったときの心の揺れは収まり、過去の自分と今の自分が何をしたいのか、やっと答えを見つけた。

100年以上も前に魂に刻まれた願いは、今も続いている。結局、私は私にしかなれない。

「神谷さん、あの話ほんと?」

コンサート前のリハで会った吉村に、開口一番に詰め寄られて理子は吹き出した。

「吉村さん、せめておはよー、とかこんちわーとか、今日もよろしくーとかないんですか?いきなりそれはないでしょ」

笑いながら答える理子に、吉村はムッとした顔で理子の後について歩く。

「おはよー、こんちわー、こんばんわー、よろしくー。これでいい?でさ、どうなの?」
「内緒でーす」

えぇ?!と、うめく吉村を残して、ステージに向った。今回は、パイプオルガンだけでなく、ピアノも弾くはずだ。このコンサートではスタインウェイを使う予定になっている。 少し古いが、理子は好きな音だった。

心が定まると、ひどく自分が軽くて心地いい。こんな風に満たされているなんて、夢のようだ。ステージの上で中央に置かれたピアノを触っていた人。スタッフにその人が加わったことは聞いていた。

「こんにちわ」

後ろで手を組んで、少しだけ気安げに話しかけると、理子から話しかけられると思っていなかったその人は、驚いてはいたもののにこっと懐かしい笑顔を見せた。

「こんにちわ。神谷さん」
「ここのピアノは、新しくはないけど柔らかくていい音出すんですよね」
「そうですねぇ。吉村さんのタッチは軽くて華やかなタイプだから合いますよね」

穏やかに、懐かしい時代を思わせるような会話ができる日が来るとは思ってなかった。長い指を見ると、昔もこの手が優しくて大好きだったな、と思う。

「変な質問ですけど……一橋さんは……今、幸せですか?」
「ええ。もちろん」

―― 貴女に会えましたから。

変な質問だと前置きされていたものの、きちんと立ち上がると、総司は理子のほうへ真っ直ぐに向きなおった。自分より頭一つ背が低くて、真黒な髪がさらさらしていて、思わず手を伸ばしそうになるところを、ぐっと総司は堪えた。

「そうですか。……よかったです。じゃあ……また」

仕事の邪魔をしたことを詫びて、理子はソデに戻っていった。
ピアノに向きなおり、残りの仕事に向かうがひどく幸福な気持ちだった。生きて、好きな人に会えるということはどれほどの幸せだろう。

 

 

 

その日のドレスは上半身が真っ白で下に行くにつれて薄い桜色の花が散ったような柄を選んだ。

「神谷さん、今日のドレス、かわいいじゃん」
「やだー、吉村さんには負けますよ」

普通ならタキシードでも着るところだが、そこは吉村だ。パーティ用とでもいえるような、洒落たスーツを着こなしていた。

「ありがとう」

思わず、声に出してしまった。ん?という顔をして吉村が理子を見る。

「やっぱり本当か」
「また、日本でやることもありますよ」
「じゃあ、その時は俺を指名して?」

軽い口調で言い返され、ふふっと笑った。この人も相変わらずだなぁ、と思う。
嬉しい。こうして、生きていける。

司会の声に呼ばれて、吉村が先に光の中に出ていく。仕事の終わったはずの総司はまだ反対の舞台ソデにいるだろう。吉村のスピーチに呼び出されて、光の中に。

 

ありがとう。出会わせてくれて。ありがとう。出会ってくれて。
ありがとう、私を覚えてくれている人たち。ありがとう、今の私を大事にしてくれた人たち。

過去の私は、子供で精一杯の恋心のままに、好きな人の傍にいることにしがみついていた。好きな人が武士でいるならば、せめて同じ武士として生きたかった。そういう時代だったから仕方がなかった。

どれほどの絶望も、どれほどの闇も。愛している、という大きな何かにすべて包み込まれているのだ。こんなに長い時間がかかって、理子の憎しみは包んでいた外側にすべて沁み込んで、そしてやはり一つの想いにたどりつく。

今は、同じ時代に生きてさえいれば、世界は繋がっている。傍にいなくても、幸せを願って生きていける。無理に傍にいさせてと、負担を強いることなく、想うことだけは自由に。

同じ過ちは繰り返さない。迷っても辛くても、こうして私たちは記憶があっても、なくても、命を紡いでいくのだから。

 

その日のコンサートを見た人には、理子の気持ちが、想いが、優しい雨のように降りそそいた。それは、客席にいた歳也にも山南にも、藤堂や斎藤にも。そして、舞台そでで見ていた総司にも。

強い想いは、時に予想外の影響を醸し出す。
アンコールを終えて、いつものように皆と会うために理子は、ロビーに向かった。明里の子供が生まれるまでは、山南は付き合ってくれなさそうだけれど、今日は歳也も総司も一緒に合流するはずだった。

調律師は、始まる前が仕事だ。理子より早く、総司はロビーにいる面々と合流していた。

―― こうしていると、ほんとに懐かしくなっちゃいますね。

まだまだ、一番最近、記憶を取り戻した総司だけは、すべてが飲み込めていないことが多いが、それでもだいぶ落ち着いてきたと言える。幾人もそろわない顔があるにしても、それでもつい顔が笑ってしまう。その姿をみて斎藤が呆れた声を出しながら脇腹をどついた。

「アンタのその顔はほんっとに」
「はい?」
「昔からムカついたよ」
「あははっ」

「それ、神谷にあげるの?」

総司の手にある白いバラの小さな花束を指して、藤堂がいう。総司が嬉しそうにうなずいた。
そこに、藤堂の携帯が鳴った。

「あ、神谷?うん、みんなロビーにいるよ」

少しだけ、優越感を感じて藤堂はわざと大きな声をだす。その場にいた男たちが少しだけ笑った。

「お待たせ」
「えぇぇ?!」

背後から急に声をかけられて、藤堂が叫んだ。悪戯が成功したとばかりに、理子が笑った。

あの頃も、こんな風に笑いあえる時間が続けばいいと願っていた。
さて、どこに食べに行くの、飲みに行くにはどこがいいの、未だに決まっていないのかなどと、あれこれ言い合い始めた。車で来ている藤堂や電車組など、お互いに好き勝手言い合っている。

そこに、人もまばらになってきたロビーの片隅だというのに、一人の女性が近づいてきた。ただ通りすがるのかと、理子が体をよけた瞬間。

「私を捨てるなんて、裏切るなんて許さない!!」

その手に小さなナイフを持って、震える声が叫んだ。その女性は、来るもの拒まずの総司がこの間まで付き合っていた女性だった。自分が決して好かれて いるわけではないと知っていても、拒まないでくれる限り、総司の傍にいられると思っていた。ところが急に、覚醒した総司から切り捨てられた。
誰の代わりにもならないただ一人の人を見つけたからといって、二度と関わるなと言われた。
彼女にはそれが許せなかった。受け入れてくれたのに、身勝手に切り捨てるなんて、許せないと悲痛な思いが彼女を駆り立てていた。

「あなたは……。いくら言われても貴女とはもうお付き合いできませんよ」

冷たい声であっさりと切り捨てる。歳也だけが、だから言ったのにと眉をひそめている。さすがに大の大人の修羅場に割って入るようなことはしないが……。

カタカタと震える手で握りしめられたナイフは、白くなるほど握りしめられた手によって、切り捨てられた彼女の悲しみが伝わってくる。それでも、総司の冷たい眼は変わらない。

「だって、総司さん、一度は一緒にいてくれたじゃない!」
「それは以前の話です。今は違う」
「……みっともないな。……おき……一橋さん」

さすがにロビー中の注目を浴びての修羅場は傍にいるだけでもいたたままれない。斎藤が割って入ろうとしたが、藤堂に止められた。
この手の修羅場は、藤堂の店でも時々ある。だからこそわかるのだ。たとえみっともなくても、下手に割り込むと、感情的になった方に何をされるかわからない。まして今は相手がナイフを持っているのだ。よほどうまくやらないと、怪我をする。

「……私のせい……だっていいそうな顔してみないでくださいよ、歳也さん」
「……俺にふるなよ。自業自得だろ」

渋い顔で軽く睨まれた総司が、口に出して反論するが、何処から誰が見ても非が何処にあるかは明確である。俺は関わらないとばかりに、歳也も斎藤も総司から離れようとした。

「私の話をきいてるの?!」

そんな男達の会話がよけいに火に油を注いだらしい。状況はさすがに誰が説明しなくても、その場にいた皆が飲み込めていた。
たとえ、刺してきても自分達なら何とかなると、男達は皆タカをくくっていた。だからよけいに反応が遅かった。

カッとした女性が、少しでも本気であると見せようとして、ナイフを突き出した瞬間、総司と女性の間に身をさらした理子が、女性の手をつかんで、その まま自分に引き寄せた。なんともいえないくぐもった音がして、周りにいた男達さえ、一瞬何が起こったのかよくわかってなかった。

理子の肩から提げた大きなバックが死角になる。身軽な私服に着替えていたが、黒いジャケットやその下の服はさすがに場をわきまえたもの。そんな服装なのに、どこかに何か力がかかっている。
理子の腕が女性の手と二の腕を押さえ込んだ。

「こんなことをしちゃいけない。私も……私も以前はそうだったの。でもだめ。恋は狂気を呼ぶものだけど、愛しさは狂気に勝るの。さぁ……このまま手を離して」
「あ、ぁぁ……う、そ……」

「大丈夫よ。そのまま、手を離して。何もなかったの。貴女はこのまま帰って。急いで」

静かに話しかける理子の声に、正気に返った女性が驚いて、震えながら離れた。ダメ押しのように理子がつかんでいた腕を回して反対向きに押し出した。左のわき腹をバックに隠すようにして、きつく握りしめる。
一度だけ、振り返りそうになった女性に早く行ってと告げると、後は振り返りもせずに走り去った。
呆気にとられていた男達の中で、斎藤だけが動いた。理子の腰に手をまわして抱き寄せるようにすると、そのままゆっくりと座らせるようにその場にしゃがみこんだ。背中まで伸びた真っ直ぐな髪が、床の上に流れる。

「馬鹿なことするな!」

女性が慌てて去っていく姿を見て、周囲の注目が解けていくのを見ながら、斎藤が低い声で叱りつけた。