桜の木の下で 2

〜はじめのつぶやき〜
過去は過去ですが、乗り越えるまでに苦労した分、そんなに簡単に幸せには浸れませんよ。
BGM:貴方のお好きなさくらの歌で。
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部屋に戻った総司は、迎えに来たことへ礼をいう理子とともにリビングへ腰を落ち着けた。

「散歩もいいですけど、こんな時間に行くなら一声かけてくださいよ。私が寂しくなるじゃないですか」
「寂しいって……何言ってるんですか」

くすくすと理子がいつものように笑いだして、朝からなんとなく感じていた違和感が押し流された。食事はとってきたという総司に昼間、暇つぶしに作っていたレアチーズケーキを切り分けた。

総司の好みで言えばもっと甘いベイクドチーズケーキのほうが好みだろうが、好みに合わせていたらどれだけ不健康な食生活になるのか、わからない。
レモンの代わりに柚子を使って酸味を少し抑え気味にしたレアチーズとコーヒーに総司が目を輝かせた。

「打ち合わせが早く終わって、時間があったから」
「作ってくれたんですか?!」

語尾にハートマークがくっつきそうな勢いで、総司が目の前に出された甘味に食いついた。好みは本当に変わらないことに苦笑いを浮かべた理子は、自分のカップを持って総司の隣に座った。
子供のように嬉しそうにフォークを握る総司の顔を眺めていた理子に、ふっと振り返った総司が目を丸くした。

「どうかしました?」
「え……?」

ひょいっと手を伸ばした総司が隣で総司を眺めていた理子の頬に触れた。
親指の先がぐいっと頬を拭ったことで、理子は自分の頬に障って、初めて自分が泣いている事に気づいた。

「あ、あれ?なんで泣いてるんだろ」
「なんでって、泣いてる本人が言う?!」
「だってわかんないし!」

理子は、慌てて自分の顔を手の平で拭った。自分でもそんなつもりもなくただじわっと目尻から流れていた涙に自分が一番驚いた。
別に何があったわけでもないのに、勝手に流れてくる。

総司は困惑した顔で伸ばした手を落とした。

女が不安定になっている事があっても、これまでは形ばかり甘やかして、優しくしてやれば面倒はなかったはずだ。泣かれて、ごねられて、不安定さにつきあわされるのがご免で、そんな程度だったはずなのに、今はどうしていいかわからない。
何が悲しいのか、何か嫌なことでもあったのか。自分が何か気に障ることをしたのか。

考えれば考えるほどどうしていいのか分からなくなる。
こんな時は年がいくつでも、どれだけ付き合ったことがあっても、相手は一人だから。

片手に握ったままだったフォークを置いて、ぐいっと口元を拭うと、総司は理子の方へ向き直った。

「何か、ありましたか?」
「ないです、ないです。本当に、何もないんです。何もないのに馬鹿みたいな」

いい年をして、意味もなくただ泣くなんて情けないと、言う理子の頭を総司が引き寄せた。

「ごめんなさい。何があって、泣いているのかわからないんですが……。貴女に泣かれるのはどうしていいかわからなくなるんですよ」

抱えられた腕が温かくて、いつもの肩に額を寄せるとそれが心地いい反面、理子の中でそれに浸れない自分がいる。ぐいっと総司の胸を押しのけて、理子は俯いたまま総司から離れた。

「~~っ……。ごめんなさい」

ぱっと立ち上がった理子はそのまま自分の部屋へと逃げ込んでいった。残された総司は困惑を隠せないまま、理子の後ろ姿を見送った。

それでも、残ったレアチーズを食べきって、皿やカップを片付けた。シャワーを浴びて、濡れた頭をタオルで拭いながら出てきた総司は、理子の部屋の前まで行って、ドアの隙間から明りが見えないことに気付くと、ノックしようと片手をあげた手を下した。

―― 難しいものですね。ただ、笑っていてほしいだけなんですけど

ただ、好きで、一緒にいられて、笑って共に過ごせればそれでいい。そんな当たり前なことができなかった昔に願ったことを実現したいだけなのに。

「……お休みなさい」

ぽつりと呟くと、総司は自分の部屋へ戻った。屯所の中ほど広くないはずなのに、この部屋を隔てる扉がひどく遠い気がする。

深く考えることが苦手なのは今も一緒で、特に理子に関しては放っておいても考えてしまうのに、考えるのが難しすぎて。

ベッドの上に寝転がったまま、両腕を額の上で腕を組み合わせた。

 

 

うす曇りの朝に先に起きたのは総司で、いつの間にか眠ったものの、いつも起きる時間よりも早い時間に目が覚めた。

気になって早々と起きてしまったのだ。
シャワーを浴びるには面倒で、洗面で頭から水をかぶった。そして、顔を洗うとざっと頭を拭った。

カーテンを開けると、ピアノの前に座る。

防音されているとはいえ、早朝のことで一瞬躊躇したが、カーテンを開けたついでに窓を少しだけ開けると、すでに街は起き出していて、あちこちでざわざわとこれから仕事に向かう人々の気配が広がっている。
一度、全開にして部屋の空気を入れ替えた後、窓を閉めると鍵盤に指を下した。

カノン。

あまり音を大きくしないように、柔らかな音で弾く音には総司なりの想いが込められている。
繰り返す音は、記憶と想いを乗せたいと思う。

過ちをたくさん繰り返して、それでも忘れられなかった想いをちゃんと守りたいと思う。

―― こんなにも怖いことだなんてわかりませんでしたけどね

ごく普通に傍にいることが、どんなに大事なのかを良くわかっているから、なくしたらと思うだけで怖くて仕方がなくなる。
ちょっとした喧嘩や、嫉妬や穏やかな時間を繰り返して、ただ大事にしたいだけなのに。

結局一晩うつらうつらしたままベッドの上で蹲っていた理子は、ピアノの音に目を開けた。
優しい音は総司の優しい想いを伝えてきて、また泣きそうになる。

大事にされていると思う。

幸せだと思う。

なのに、何がこんなに切なくて、不安になるんだろう。

 

想い出は桜が花開くように、少しずつ浮かび上がってきて、心を揺らす。

桜は特別だから。優しく揺れる淡い紅色も、舞い散る花びらもカノンの音のように繰り返し、繰り返し、無くならない記憶とともに。

 

 

– 続く –