桜の木の下で 3

〜はじめのつぶやき〜
桜の回想は、鮮明に思い出させます。
BGM:松 たか子 桜の雨、いつか
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「神谷さん」
「なんでしょう」
「貴女と妙蓮寺の桜を見ようと思ってたんですよ」

船の中で壁に寄りかかった総司が、肩に羽織をかけてセイを呼んだ。ずっと、大人しく体を休めながら船に乗り込んで、我儘一つ言わずにいた総司が時々、セイにだけは傍にいてくれるように強請ることがあった。

今日もそんな風に強請って、仕方ないと言いながらセイは皆の着替えを片付けながら総司の床の近くについていた。一番小さな船室をあてがわれている総司のすぐ傍にはいられないが、こうしたときだけは同じ部屋にいて、話をする時間が持てた。

「妙蓮寺の桜ですか。有名なんですか?」
「ええ。9月から春まで咲く桜なんですよ」

普段は、総司の世話をすることも厳しく断られるのに、ほんのわずかなこんな時間だけ傍にいて、顔を見て、話ができる。セイは、建前としては、忙しいからといって、何かしらの仕事を手にして総司の部屋を訪れていたが本当はただずっとその顔を眺めていたかった。
何かをしていないと、余計なことを言ってしまいそうで。

「じゃあ、今度見に行きましょう。江戸に着いたら、お花見ですね」
「見に行けるのかな……。約束してしまうと叶わなくなりそうで」
「やめてください!」

総司の顔を見ないようにして、セイは遮るように怒鳴った。それに対して、のほほんとした顔で総司は微笑んだ。

「そんな怒らないでくださいよ。芹沢先生とね、約束したんです」
「芹沢先生……ですか」
「ええ。芹沢先生をお連れしようと思ってました」

連れて行こうと思って叶わなかった。
ばさっと荒々しく畳み始めたセイは、動揺を隠しきれずに指先から血の気が引いて行くのを感じた。冷たくなる指先に、背中を冷や汗が流れる。

「じゃあ、絶対に江戸に着いたらお花見しましょう!局長や副長を誘って、原田先生や永倉先生と斎藤先生と……」

藤堂と山崎と井上と。

そう言いかけたセイは、続きを言えなくなって目に溢れそうになった涙を思い切り目を見開いてこぼれないように口を一文字に結んだ。
どんなに否定しても、セイにだってもう嫌というほどわかっていた。

どこで、道がこんなにも。

「お茶!入れてきますっ」
「はいはい」

ばさっと着替えを一抱えにしてセイは船室から飛び出した。呑気な相槌のような声が背後から聞こえて、セイはかろうじて泣き声を押し殺すことに成功した。

部屋を飛び出してから急いで部屋を離れると、ぐいっと袖口で涙を拭って船室へと着替えの山を置いて、甲板へと走り出た。波の音と、海風が大きくて、どんな声でもかき消されてしまう。

「うぅぅぅぅっ!!」

甲板にでて船尾の方へと向かったセイは、一番隅で蹲ると膝を抱えてむせび泣いた。泣いたからといって、何ができるわけでもないことはわかっている。

ずっと、ずっと泣かずに来て、耐えてきた。

なのに、他愛ない桜が思いがけずセイの中で涙を堰止めていたものを打ち砕いた。板の上に膝をつき、腕を叩きつけるようにして、声を限りに泣いた。

どれだけの時間、声が。涙が。

枯れることなく泣き続けたセイの頭から大きな羽織がかけられた。

「お前はもう総司の部屋には行くな」

静かにかけられた声に、がばっとセイは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。壁に寄り掛かった土方は袂に腕を差し入れて、そこに佇んでいた。淡い月明かりの下で、その表情ははっきりとは見えなかったが、声音はひどく優しかった。

「俺が決めたことじゃない。総司が決めたことだ。お前はもう部屋には来るなとさ」
「どうしてっ」
「お前がそうして泣くからだろう。お前が泣くのは嫌なんだとさ」

ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚がセイを襲った。形振り構うこともせず、セイは床の上を四つに這って土方の足に縋りついた。

「泣きません!!もう二度と泣きません!!だから、これからも沖田先生のお世話をさせてくださいっ!!副長!!」
「……だから、俺が言ったんじゃねぇよ」

無様なほどに這いずって、長着の裾を握りしめたセイに、吹き飛ばされそうになった羽織をもう一度掴んで肩の上にかけた。真下から真っ赤な目で必死に見上げてくるセイの腕を掴んで立たせた。

「お前はなぜ泣く」

静かに、土方がセイに向かって語りかけた。散々泣いて、溢れる感情に押し流されていたセイは、すぐにその問いには答えられなかった。
土方は、手を離せばすぐ崩れ落ちてしまいそうなセイの腕を掴んで、その瞳を覗きこんだ。

「いいか。お前に泣く理由があるのか?お前は今、五体満足で、近藤さんもいる。俺も、斎藤も総司も生きている。なのに、なぜお前は泣くんだ?」
「それはっ!……」
「総司は治るかも知れないとなぜ信じない。藤堂や源さんや他の奴らがいないからか。なぜ奴らの分も生き延びて、戦い抜くと言えない?」

責めるわけではなく、ただ静かな問いかけはセイの荒れ狂う心を静かに穏やかなものへと向かわせた。

「泣きたければ泣け。それは構わん。だが、その後、お前はどうするんだ?」
「傍に……沖田先生のお傍にいたいです」
「なら、総司が死んだらお前はどうするんだ?」
「……っ!」

反射的に拳を握ったセイの手首をあっさりと土方は掴んだ。淡々とした口調は、変わらないまま、髷ではなく襟足で束ねた髪が風になびいて舞った。

「怒っても、何をしても事実は変わらん。たとえ、うまく病み抜けたとしても、いつかは皆死ぬ。生まれから行けば、お前よりは確実に俺達の方が先に死ぬだろう。まして、この先も戦い続けるならなおさらだ。その時、お前はどうするんだ?」
「局長や……、副長が闘われる限り戦います」
「なぜ。何のために」

大粒の涙を零しながら、セイはまっすぐに土方を見つめて言った。

「もし。そこに沖田先生がいらっしゃらないなら、沖田先生の代わりに、命の限り局長や副長を守って戦います」

その答えを聞いた土方が、薄闇の中でふわりと微笑んだ気がした。

「なら、なぜお前は今泣いてるんだ?お前はまだ戦ってる最中で、総司も病と闘っている最中に」
「だっ……、うぅ……私はっ」

再び、掴まれた腕をあげて泣き出したセイを、土方は引き寄せて風を遮るように両の袂で覆った。セイに負けないくらい冷えた着物だったが、風が当たらない分だけその人肌の温度が伝わってきて、セイは声をあげて泣いた。

「もう、二度と、泣きません。だからっ」

今は、今だけは泣かせてくれと願ったセイを優しく腕に抱えてあやすようにその背を叩いた。
自分たちでさえ、辛い日々が続き、何度も折れそうになる心を奮い立たせて、皆を率いてきた。セイの性格を考えれば、これまで泣かずに耐えてきただけでも相当の我慢だったのだろう。

泣いて、泣いて、泣き疲れて崩れ落ちたセイを土方が抱えあげると、暗闇からじわりと滲みだすように総司が現れた。

「すみません」
「てめぇ。そんなところで何してる」
「ご面倒かけて悪いなぁと思ってるんですよ」
「それとこれとは関係ないだろう。こんな夜風にあたってていいと思ってんのか」

綿入れを羽織った総司が船室へ続く戸をあけると、セイを抱えた土方が先に中に入れと顔を振った。先にその細くなった体を通路へと押し込んだ総司に続 いて土方が中へと入った。先導するように進む総司が、セイがいつも寝起きしている大きな船室へと向かおうとする手前で、土方が足をとめた。

「こいつは近藤さんのところで預かる」
「土方さん?」
「お前の部屋には近づくな、とは伝えたが、俺の指示じゃないことも言った」

だから、場合によっては総司が何と言おうともセイに世話をさせると匂わせた土方に、総司が苦笑いを浮かべた。

「私はもう、この子を守ってあげられないんですよ」
「守れないなら、死ぬ気で治して、守ればいい」
「無茶を言うなぁ。相変わらず歳三さんらしいや」

いつもの土方なら、ふざけるなと怒鳴りつけるところだったが、その日はそうではなかった。ただ、何か託宣を受けたように静かな口調で告げた。

「今でなくとも、未来のお前に後悔の二文字を吐かせるような真似だけはするな」

それだけを言うと、土方は器用に片手を操って、近藤と土方が休んでいる部屋の戸を開けてその中に消えた。通路に残された総司は、喉の奥に感じる熱と咳を息をつめて押し殺すと、壁に寄り掛かった。

「後悔なんて……」

目を閉じた総司は、重い体を引きずるように自分に割り当てられた部屋へと戻って行った。

 

– 続く –