桜の木の下で 4

〜はじめのつぶやき〜
桜の回想は、鮮明に思い出させます。
BGM:松 たか子 桜の雨、いつか
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揺り起こされる記憶に、ずずっと鼻をすすって目の前の現実に意識を呼び戻した。
ここは畳があって刀を常に身近においていたあの頃の部屋ではない。
ベッドがあって、今時の服と、化粧品と、アクセサリー。
仕事は人を斬る事ではない。歌うことが仕事。

私は、何もできなくて泣いたセイではない。

今の私は神谷理子として生きてる。
何の不足もなく、幸せに。

深呼吸して窓を開けよう。今は好きな人が傍にいてくれて、何も怖がることもないはずなのだから。

自分自身に言い聞かせるように、頭の中で理子は何度も繰り返した。
鏡の前で目をこすって無理矢理笑顔を作る。

―― 大丈夫。

ドアをあけて、リビングへと顔をのぞかせると、遮られていたピアノの音がふわりと包み込んだ。

「おはようございます。贅沢な目覚ましで起きちゃいました」

おどけて見せた理子に、総司が頷きだけを返した。その間に、勢いよく顔を洗うと流れていた音が止まる。顔を拭いて、下地まで整えていると背後からいつものテレビの音が聞こえ始めた。

「おはよう」

キッチンに立った理子に向かって改めて総司が声をかけた。ほんの少し前までは、昨日のことに触れるべきか迷っていたが、結局普通に声をかけた。

「今日は、仕事、遅くなると思います。日帰りだけど大阪まで行って来るの」
「遠出ですね。打ち合わせ?」
「ええ。来月の恭子さんたちの結婚式までは大きなコンサート入れてないんだけど、その後にやるときの下見もかねてるんです」

それを聞きながら総司は自分の手帳の隅に理子の予定を書き加えた。

「遅いなら連絡をくれれば迎えに行きますよ?」
「子供じゃないってば」
「子供じゃないから迎えにいくんですってば」

ぷっと二人揃って吹き出した。こんなとき、いつも折れるのは理子の方だった。理子はわかりました、といって頷いた。

 

 

夕方になってから総司の携帯に斉藤から連絡が入った。
どうにか時間を作って衣装合わせだけは終わらせてきたらしい。

『先日の打ち合わせの礼がしたいんだが、時間はあいてないか?』

メールを見た総司は、すでに仕事を終えて家に戻っていた。すぐに返信を送り返す。
恭子と共に、軽い食事でもということになって知っている店で待ち合わせることになった。先に来ていた斎藤と恭子が、総司が店に入ると真っ先に礼を言いだした。

「一橋さん、先日はありがとうございました」
「いえいえ。私が斉藤さんの代打なんて申し訳ないくらいでしたけど」
「すまんな。時間の融通がきく相手というとアンタしか思いつかなかったんだ」

恭子と斉藤のそれぞれから礼を言われた総司が、大したことをしたわけじゃないと返すと、まずは何か頼むことにした。いくつか、とりわけて食べられる物をオーダーして向かい合ったところで、二人の荷物を見ながら総司が準備の進み具合を尋ねた。

「どうです?もうほとんど準備、終わりました?」
「ああ。二次会は藤堂さんが手配してくれている」
「あの人、自分の店だと融通が利きますからね」

斉藤達の式の二次会は藤堂が仕切っており、自分の働く店を貸切にしてあれこれと手配しているらしい。集まるのもほとんど斉藤の病院のスタッフや、恭子の知人達が主で、表立っては一番繋がりのわかり難い面々は、斉藤の友人として招かれている。

式場の席次でも職場の関係者よりプライベートな友人達がより上座に近い場合があるが、彼らはほとんど身内扱いの席次になっている。斉藤の両親も当然出席はするが、地方在住の親戚達はあまり呼んでいないらしい。

「本当にいいんですか?ご両親以外は、ほとんどご親戚を呼ばれてませんけど」

下刷りされた席次を見せてもらった総司が、心配になって斉藤の顔を見ると当の本人は澄まして答えた。

「こんないい年の男のために、わざわざ呼ばなくていい」
「カズさん、従兄弟達の中で一番最後なんですって。だから呼びたくないって言うんですもん」

横から恭子がさらりと暴露すると、斉藤が薄っすらと赤くなって横を向いた。くすくす笑いながら斉藤をあしらう恭子に、総司が笑い出した。

「斉藤さんって本当に可愛い人ですね、恭子さん」
「一橋さんもそう思いますよね。ほら、カズさん。皆、やっぱり思うのよ」
「……しるか」

そっぽを向いて拗ねてしまった斉藤に、恭子が肩を叩いてとりなした。拗ねた斎藤と言葉を交わしている恭子に気を遣った総司は一度、手洗いに席を立った。
総司が戻ると、うまく斎藤をいなしたのかそろそろ店を出る話になっていた。

「コイツは帰るが、神谷が遅いならアンタはまだ時間があるんだろう?藤堂さんの店に行こうと思うが?」
「恭子さん、お送りしなくていいんですか?」
「私のことは気にしないでください。まだ時間も早いし、藤堂さんにもお世話になってますから是非お二人でどうぞ?」
「それじゃあ、お言葉に甘えて斉藤さん、お供しますよ」

二人揃って、恭子を最寄り駅まで送ると、藤堂の店へ向かった。

「あれ、二人揃っては珍しいね。いらっしゃい」

カウンターの慣れた席に落ち着くと、黙っていても藤堂は二人にそれぞれビールと水割りを出してきた。斎藤が二次会の手配に礼を言いながら、そんなこんなで二人で現れた理由を話した。

「なる。恭子さんも連れてくればよかったのに」
「いいんだ。あいつはあまり遅くまで出歩くのが好きな方じゃないしな」
「斎藤さんてば、もうすっかり旦那さんの台詞だね」

からかう藤堂に、当然だと切り返した斎藤は水割りをうまそうに飲んでいる。

「斎藤さんって……。ま、そういう人だよね」
「でしたね」

藤堂と総司が呆れた顔でうなずき合っていると、ふと総司が気になっていたことを思い出した。一杯目をすでに飲み干してしまった斎藤に、藤堂がおかわりとつまみを取りに、一度奥へと下がって行った。

「そういえば、斉藤さん。ちょっと聞いてももいいですか?」
「なんだ?」
「理子って、桜、嫌いですか?」

唐突な総司の問いかけに、斉藤が片方の眉を上げた。
ちょうど、つまみのふきのとう味噌とキャベツを持って奥から戻った藤堂が斉藤の代わりに聞き返した。

「神谷がそんなこと言ったの?」
「いえ、何も。ただ、このところ様子が変だなと思っていて、なんとなく、ですけど」

曖昧な総司の言葉に、斉藤と藤堂は顔を見合わせた。実はこの三人の中では総司が一番、理子と一緒にいる時間が短い。
二人が顔を見合わせたのを見て、総司の手にしたグラスが止まった。

「何かあるんですか?」
「うーん……。斉藤さん?俺よりも斉藤さんの方が知ってるよね?」

困った顔で藤堂が斉藤へ話を振った。水割りのグラスを置いた斉藤がしばらく考えてから真っ直ぐカウンターの方を向いたまま口を開いた。

「嫌いなのかと言われると、嫌い、なんだろうな」

– 続く –