青い雨 9

「かーみーやーさん」

妙に楽しそうな声にセイは天井を仰いだ。

「……沖田先生」
「はい?」
「なんですか。気持ち悪い」

セイの一言を聞いて眉間にしわを寄せて悲しそうな顔をした総司は、すすっと小部屋の中を覗き込んだ。

「……冷たい」
「あのですねぇ。急に顔をお見せになったかと思ったらそんな気持ち悪い声出されたら……」

当たり前でしょうが。

「ひどい」
「仕事中ですから。いったい、何事ですか?」
「私はほら、今日は巡察も終わりましたしね。神谷さんと久しぶりに甘味でもどうかなと」

総司の魂胆を理解したセイは、黙って立ち上がる。

「そんなにですか?」
「ん?」
「別に私は何もなくても構いません、と言ってますのに……」

ため息をついてセイは傍に置いていた懐紙を懐に入れる。

「……仕方ありません。同行しましょう」
「……渋々って……。まあ、いいか。副長には言ってありますから行きましょう!」

渋々応じたセイに今度は総司が袖口に手を入れてしばらく唸ったが、とにもかくにもセイが頷いたことで満足したのか、総司はいそいそと小部屋から表に出る障子を開いた。
総司の草履はこちらにはおいていなかっただろうに、なぜか二つ並べられている。

―― 用意万端すぎじゃありませんか、先生……

セイが断る、という選択肢はどうやらなかったらしい。

連れ立って屯所を出た総司は、セイを促してゆったりと歩く。

「久しぶりですねぇ。こうして一緒に甘味処に向かうなんて」

それは当たり前でしょう。

ちらり、と総司の横顔を見たセイは、そうですね、と呟く。
武士とその妻女が連れ立って共に歩く、等ということはめったにない。セイは今、隊士として共に歩いているからこそ、並んでいるが、これが総司の妻としてであれば、総司の後ろをついて歩くことになる。

隊士として過ごした時間が長いだけに、どちらに慣れているかといえば連れ立って歩く方だ。

「沖田先生?今は私もこんな姿ですからね。わかってらっしゃいますよね?」
「そりゃあ、わかってますよ。わかっていなければ今から向かう店に行くはずがないでしょう?」
「ならいいんですけど……、ってどこに向かってるんですか?」

日は高く、朝一番の巡察を終えて戻ってきた頃合いだ。
急ぐものではないが、のんびりとどこまで歩く気なのかとセイは首を傾げる。

総司は小さく笑った。

「一緒に甘味をいただきたかったのもあるんですけどね。先日、ほら、千早さんたちがお座敷にきてくれたでしょう?その時、教えてもらったんですよ。甘味のほかに飴玉もおいしいらしくて。飴玉ならお里さんたちにお土産にしてもいいかなと思いまして」
「それはいいですね!お里さんにはいつもお世話になってますし」

急に機嫌がよくなったセイを見て、総司は嬉しそうに目を細める。

形にこだわったわけではない。ただ、時々、無性に思う。
日常が悪いのではないが、こうしてふいに見せるセイの笑顔を見たくなる。

だから何かを贈りたかった。

「いろんな味があるそうですよ」
「先生はどんなのがお好きですか?」
「そうですねぇ。薄荷味なんてどうでしょう?」
「お珍しい!確かに喉がさっぱりしますね」

そして、ふと思い出す。

「……そうか」
「何か……?」
「いや。我ながら、忘れっぽいなぁと思いまして……」

怪訝そうな顔をするセイに、首を振る。

笑顔が見たい。

笑顔を見ていなかったわけではないのに。
こだわって何かをと思ったのは、近頃、セイのこんな風な屈託のない笑顔を見ていなかった気がしたからだ。

いつの間にか、当たり前になっていたのかもしれない。
妻であり、隊医であり、母であるセイが、ただ自分の背中だけを追って歩いていた頃と同じ笑顔でいることが少なくなっていたことを無意識に感じて、どうにかしよう、と思った。

たくさんのものを抱えて、いるセイの横顔が同じであるはずもないのに。

「今は……、神谷さんでいてくださいね」
「はぁ……?なんだか今日の沖田先生は、おかしいですよ?」
「いいんですよ。そういう日もあります」

訝し気なセイと、そうなんですか?そうですよ、と繰り返しながらそぞろに歩く。あの店が変わったの、瓦版ではこんな話がでていたの、と互いに、不思議と家の話も出ないまま歩いていく。

本当に、偶さかの一日が過ぎていく。

ただ、空の向こうには、雲が影を見せ始めていた。

 

 

 

 

「おや。仕置きが効いたのかずいぶん大人しいじゃないか」

他の妓の皮肉にお柏は黙って顔を背けた。背中から腰にかけて、体を動かすたびに軋むような痛みがある。遣り手婆が毎日手当てをしてくれてはいるが、それも商品として仕方なくであって、本当に労わっているわけではないから、あとはひとりでに治るのを待つしかない。

その間も見世に出ることに変わりはない。

「……」
「お柏。アンタは今日の座敷はないよ。見世に出る支度をおし」

しどけなく着崩した朱色の襦袢を引いてお柏は自分の部屋ではなく、店の裏手に向かう。
格は上がらなくてもお柏はこの店に長い。

だから日の当たらない小部屋とはいえ、小さな部屋がある。

その部屋から粒銀を持ってきていたお柏はそのあたりにいた小者に金を握らせて懐から妻紅のついた文を預けた。

見も知らない者のことを憧れはしない。
憧れられる範囲にいるからこそ嫉妬の対象になる。

お柏の出した文は、眉を潜めた信濃屋の小者が届けたのは屯所だ。彼女の贔屓はほとんどいない。だからこそ、時折、人がいなくて呼ばれた座敷の後、お柏が出す文は相手にとっても嫌がらせのようなものに違いないと思っている。

場合によっては、届けに行った大棚の店先で放り出されるように断られることもあれば、散々文句を言われて帰ってくることが多い。

だから、屯所に届けに行ったのも、門枠の隊士に預けるだけで良いからこそほかの届け先よりもまだ機嫌よく出ていった。

隊士の方も、慣れたものだ。

「はいはい。今日の分ね」

花街から届く文のほとんどが、恨み言の混ざった単なる挨拶がわりである。唯一違うのは土方宛だが、それはさておき。

セイと甘味処から帰った総司の目の前に門脇の隊士が意味ありげな笑みを浮かべて立ちはだかった。

「沖田先生も隅に置けませんなぁ」

普段なら男同志、いらぬ面倒がないようにこっそりと届けるべき文だが、隊部屋に届けるか、セイの前であっても総司個人に渡すかのどちらかを選んだ隊士は、結果、そろって戻ってきた二人の前に妻紅のついた文を差し出したのだ。

「……え、あ、だ、誰でしょうねぇ」

ちら、ちら、とセイの顔を横目で見ながら総司は引きつった笑いを浮かべる。身に覚えなどないのだから堂々としていればよいのだが、そこはそれなのだ。

「……沖田先生にもお付き合いがありますでしょうから、きちんとお返事を」

眉一つ動かさず、淡々と口を開いたセイは、そのまま背を向けて小部屋へと上がっていく。

「あ、ちょ、神谷さん?!」
「私には関係ありませんから」

勢いよく小部屋の障子を閉めたセイを見送った総司は、がっくりと肩を落として、文を懐にいれた。

そして、こういう話ほど、屯所の中ではよく伝わるものである。

総司が一番隊の隊部屋に足を踏み入れると即座に隊士達の目が総司に向いた。

「な、なんですか」

どちらかといえば苦笑い。
そんな顔をした隊士達が総司の元に近づいてくる。

「沖田先生。沖田先生も男ですからね。そういう事もあるでしょうけども」
「堂々と妻紅ってのはどうなんですかねぇ?」
「なっ!」

思わずたじろいだ総司を取り囲んで、隊士達は好き放題に取り囲む。

「なんであなたたち、それを……」
「ちっちっち」
「俺たちに隠し事なんて無理ですよ。しかも、神谷絡みじゃないっすか」

薄らと顔を赤くして気まずそうに顔を逸らそうとする総司の懐を覗き込もうとにじり寄ってくる。

「別に、あの人もちゃんと返事をするようにってだけで……」

歯切れ悪くそう答えた総司に首を振って隊士達はしょうがないとばかりに諸手をあげた。

「そんなわけあるはずがないじゃないですか」
「そうっすよ。ちゃんと返事するように、てのはふざけんじゃないってことっすよ」
「そういったって、私は別に……。」

原田や永倉と一緒に飲みに行って、座敷に上がっただけで部屋に上がったわけではない。
そんな挨拶程度の文にセイがそこまで怒るとは思えないのだ。

「それにですね、あの人が今さらこんなもので怒るようなこと……」

今までも隊にかかわる者たちの始末なら何度もしてきたはずだ。

だが、そこが男と女の思考の違いかもしれない。

いつもそうだから。

いつもそうだったから。

自分や、自分たちの置かれている状況なら冷静に、明日も同じとは限らないと思っているのに。
安全な場所に置いておきたいと思っているからこそ、自分自身さえ騙してしまう。

総司もまた同じように、そうして目を閉じて逸らしてしまう。
何も変わらない毎日などないというのに。

 

 

—続く