夜天光 5

〜はじめのお詫び〜
過去を旅する~。
BGM:土屋アンナ Believe in Love
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しばらくすると、セイは、手桶にお湯と手拭を用意して静かに総司のいる部屋に向かった。

発作の後の疲労感で、ぐったりと横になっている総司の傍に近づくと、温かい湯で絞った手拭で口元を優しく拭う。それから首元、咳を押さえた手と、汚れを拭い去って、最後に再び湯ですすいだ手拭を総司の胸元に乗せた。

呼吸が少しだけ楽になって、総司は眼を開ける。

「……汚れますよ」
「洗えば落ちますよ。今、白湯をお持ちしますね」

手桶だけを手にして、部屋を出ると、今度は白湯に薬を添えて持ってくる。総司の傍に座ると、胸元に置いていた手ぬぐいを除けて、そっとその肩を揺らした。

「先生。少しだけ起きられますか?」

目を開けた総司が、セイの手を掴んで起き上がった。差し出された白湯と薬を素直に口にすると、ふう、と息を吐いた。

「……すみません。もう大丈夫ですよ」
「はい。落ち着かれたら夕餉をお持ちしますね」

 

そう言って部屋を出ようとするセイの手を掴む。

「神谷さん」

 

 

 

「かみ……やさん」

水面に浮かび上がるように意識が浮上して、肺の奥まで深く息を吸い込む。柔らかな感触に綿の布団の手触りとは違うことで、今がどこでいつなのかを知る。

またあの頃の夢を見た。一番、自分もセイも辛かった時期を思い出す。

苦悩だけが埋めていた日々。

どれほど彼女を傷つけたかわからない。今は健康で、望めば何でもできる。命のやりとりなど心配しなくてもいい。
自由だけが手に入って、一番求めた彼女がいない。
自分の部屋のベッドの中で、何かを確かめるように腕を持ち上げて額を押える。夢の中で見た冷たい小さな手とは違い、今の自分の髪をかき上げる。

今の自分は記憶がなくてもあの頃の自分と似た性格らしく、沖田総司という男は違和感なく自分自身だと感じられて、今の自分に溶け込んでいる。そこは理子とセイとの違いだろう。

すでに、ここにいるのはかつて剣をふるっていた沖田総司という男と同じ人間になっている。

 

起き上がった総司は、自分の熱がこもったベッドから出ると、キッチンに向かって冷たい水をとってくる。昨日、吉村のところで帰国した理子を見た時、思わず腕を伸ばしそうになった。

N.Y.で理子に会った時とは違う。正々堂々と、なんてどうでもいいくらい、今すぐこの手を伸ばしたくなる。このところ続いてみている夢が、辛い時期のものばかりなせいか、彼女の幸せを願ったことも、隊士時代の幸福な時間もどうでもいい、と思いたくなる。

今の部屋は、理子が去った後に引っ越したものだ。ピアノ以外はすべて新しい。それまで記憶のなかった自分の住んでいた部屋がひどく空虚に思えてすべての家具を捨てて、新しいものにしている。もちろん、以前住んでいた部屋とも近く歳也とも近所のままで。

顔だけを洗ってピアノ脇のカウンターに座ると、引きずっていた夢の欠片が遠くなって、理性が戻ってくる。

馬鹿な事だ。彼女を傷つけることも、歳也や藤堂を裏切ることもできるはずがない。そもそも、今の理子の連絡先さえ知らないのだから。いずれ一緒に仕事をすることもあるかもしれないが、彼女が避ければどうしようもない。

 

ただ、自分の渇望だけを感じる。

手に入らないから求めるのか。

 

 

同じころ、歳也は自室ではない場所で目覚めていた。

「ねぇ、そろそろ起きなくて大丈夫?」

聞きなれない女の声で目が覚める。都内のシティホテルの一室で、女が身支度をしている。重い頭を振っていると、冷蔵庫から冷たい水を女が放ってくれた。

「大丈夫?昨日すごく飲んでたのよ?」

ベッドに投げられたペットボトルの手を伸ばすと、急に自分が喉が渇いていることを思い出して、がぶりと飲んだ。そうだ、昨日、飛行機から降りた後、仕事に戻った歳也は共に理子が帰国したことは知らない。
ただ、理子に会った後、機内でもずっと理子のことを考えないように仕事ばかりしていたので、客のところから戻って仕事にけりがつくと、反動なのか、久しぶりに会った理子の姿が頭を占めて離れなくなった。

華奢な体、長い髪、あの意思を伝える大きな目。

 

―― 懐かしいな

 

跳ねまわるようにあちこちにいつも顔を出して、いつも騒動のタネになっていた。それでもセイがいたことで癒され、在り様が確実に左右された。
女だと知って、それでも隊士として働く姿、総司を支え、最後にどれだけ突き放されても思ってやまないしなやかさと強さに呆れもしたし、それだからこそ、惹かれた。

久しぶりに会った彼女の膨れた顔や笑顔が本当に昔のようで、可愛くて、昔を取り戻せるのではないかと錯覚しそうなくらいだった。
本当は藤堂に何と言われても、今生で彼女に想いを委ねることなどする気はなかった。もう傷つけたくない。守りたい、幸せになってほしい。
だから、斉藤のように見守ることに徹する気でいた。

昔も、どちらかといえば自分の想いより幸せならば総司の傍にいさせてやることが望むことだった。自分には他にすべきことがある。
守ることも愛することも共に連れて行くこともできないなら、総司の手に委ねるほうがいっそ幸せだった。
しかし、最後にその幸せを摘み取ったのも自分だ。総司と離し、あれほど何処までも一途に求めていたセイを憎しみに突き落としたのも。

結局、セイを抱いた時のことは、総司とは話をせずにいる。このまま何も触れずにいるならば、今は墓場まで持っていくつもりでいる。

唯一の不安は、自分達よりも一番遅くに思い出した総司のことだけだ。過去の記憶は一度蘇っても、その日々の分だけ無作為に夢に見る。大まかなことは 思い出しても、数年では思い出したすべてを昇華できる時間ではない。自分達にも覚えがあるが、夢に見る時期に引きずられることもある。

理子と総司が関わらないならばいいがあれほど強く惹き合った彼らがこのまま関わらずにいられるとは思えない。一度、憎しみにまみれた理子がぎりぎりのところで踏みとどまって姿を消した理由が分かるだけに、不安な思いだけが募る。かつての弟分の心が何処にあるのか。

―― 昔はアンタがいてくれたのにな。近藤さん

「ねぇ?先にでるね?」

不意に現実に引き戻される。
彼女は、いつもの馴染みの店の女の子で時折こうして付き合ってくれる。昨夜のように泥酔に近くて何もないともきも、あるときも、さばさばして何かを強請るようなこともなく、淡々とした付き合いが続いている。

「悪いな。土産も何もなくて」
「やだな、そんなの沖田さんに期待してないって。趣味が合わなかったら私、すぐ売っちゃうし」
「そっか。悪い」

あまりにぐったりした歳也が気になったのか、もう部屋を出るばかりだった女がバックをおいて、ベッドの上に乗ってきた。 躊躇いなく歳也の膝の上に乗ると、寝起きでぼんやりしている歳也の顔を両手で包み込んだ。

「どーしちゃったの?なんか夕べからメチャ、落ち込んでるけどさぁ。落ち込んだって何にも解決しないよ?」

明るい声の彼女は、時々、杞憂が過ぎる歳也の考えていることをうるさく詮索してこないのに、的確なことを言ってくる。綺麗に化粧をした彼女の顔を見て、苦笑いが浮かんだ。

「そんなに情けない顔してるかよ?」
「してるよぅ。捨てられた子供みたいだよ?」

そういと、口紅のついた唇がちゅっと鼻の頭に軽いキスを残して、彼女はベッドから降りた。

「私、用事あるんだ。ごめんね、一緒にいてあげられなくて。また今度ね」

そういうと、ひらりと身を翻してバックを手に部屋を出て行った。帰国した翌日をオフにしておいてよかったと、つくづく思う。
チェックアウトの前に歳也はバスルームに向かった。

 

– 続く –