心の真ん中へ 3

〜はじめのつぶやき〜
総ちゃんのお父さんは、実は頭のいい人なのかもしれないです。
BGM:スキマスイッチ  センチメンタルホームタウン
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緊張する予定ほど焦るうちにあっという間に迫ってくる。
7月に入ったばかりだと思っていたら、急に暑くなった日々に追いかけられて、気がつけば三連休に片足を踏み入れていた。

世間が連休という時こそ、理子や総司はイベントに追われて仕事になることが多い。

この日も総司はイベントの準備という仕事が入り、理子よりも早く家を出た。遅れて理子がゆっくりと支度をしてから家を出る。

暑さ対策をしていても、世の中が急激な節電に動いているためにどこにいても汗ばむ事は避けられない。舞台の上で汗だくの姿をさらすには抵抗があるために、着替えを必ず多めに持参するのは今年のイベントでは不可欠になったと思う。

「これが流行りの音楽とかなら汗だくでライブもいいんだろうけど、ね」

ぶつぶつと独り言を口にして理子は現場に向かった。三連休の初日に行われる都内のジャズイベントだけに、クラシックのステージよりはラフな服装で許される。
肩の露出が多い服だが、周りの雰囲気に合わせて選んだステージには他の演奏者達も似たような服装の者が多い。

これでも他の場所よりは涼しいのだろうが、それでも大型商業施設の中のステージだけにそれほど冷えた感じもなく、順番待ちの間にジワリと背に汗を感じる。

軽い曲を数曲歌った後に、ステージから撤収寸前にヤジが飛んだ。

「大したことねーなぁ」

どきっとして声のした方を向いたが、通りすがりの客達にまぎれて声を上げた人がどんな人だったのかもわからない。バックのメンバー達に肩を押されてステージから降りたが、ドキドキする心拍はなかなか収まらなかった。

バックに引っこんでから、理子を気遣って、他の者達が他愛ない話をしてくれるがざらりと心に混ざった不快な手触りに、いつもより丁寧に化粧を直した。

「神谷さん、この後もあるんでしょ?」
「ええ。今日は重なってしまったの」

なんとか笑顔を浮かべて会場をでた理子は、すぐに次の仕事のジャズバーへと向かった。移動も電車で動く理子は、ヘッドフォンのボリュームを上げる。
いつもならちょっとやそっとのヤジに動揺することなど少ないのだが、今は些細なことでも気になってしまう。何か一つでも落ち度があれば、総司に見合わないのではないかという不安が根底にあるからだ。

夕方から二回のステージをこなして、仕事明けに演奏したメンバー達と軽く飲んでいると、年配の男性が近づいてきた。ずっとカウンターで夕方から飲んでいたのは理子も気がついている。本を片手に時間を楽しむ姿がそこだけ大人の空間にかえていた。

「よくこの店で歌っているんですか?」
「ええ。多いですね。他のジャズバーでもあちこちで歌ってます」

眼鏡の奥から覗く瞳がまっすぐで、その目を見返した理子は、どこかで前にも会ったような気がした。誰かのようだと一瞬掠めた感じがするりと逃げて行く。

「こういうお仕事も大変ですね。先行きが不安になりませんか」

時たま言われる問いかけに理子は手にしていたグラスを傾けた。外側についていた水滴が右手にはめている指輪を濡らして、すこしだけ緩い指輪をくるりと回す。

「不安はもちろんありますけど、大事な人に見合う私でいるためにはやめられないんです」
「そうですか」

軽く頭を下げると、グラスを持って理子はカウンターの奥へと入っていった。店のスタッフが通してくれて、荷物を置かせてもらっていた事務所兼控室へと戻った理子は、着替えずにそのまま挨拶を済ませて店を出た。

携帯でもう終わったとメールを打ち始めたところで着信が鳴る。

「もしもし」
「お疲れ様」

耳元と、間近で聞こえた声に顔を上げると歩道の脇に佇む長身の姿が手を差し出した。

「あ」
「今日は荷物が多そうだから迎えに来ちゃいました」

急に目の前に現れた総司に、理子が携帯を閉じた。嬉しくて口元が緩んでしまう。

「お店に来てくれたらよかったのに。こんな暑いところで待ってなくてもいいじゃないですか」
「仕事の邪魔をしたくないので、ね」

差し出した手が大きなバックを理子の手から連れ去って、理子と並んで歩きだした。
昔のように、顔を見ればすべてが洗い流されるわけではないが、それでも迎えに来てくれた気持ちが嬉しくて、ついつい笑顔が浮かぶ。

「機嫌いいですね。そんなに今日はうまくいったんですか?」
「分かってない。先生が迎えに来てくれたからです」
「それ、毎回迎えに来いというリクエストですか?そんなにいつもいつも迎えには来れませんよ」
「分かってますよ。ただ来てくれたことが嬉しかっただけなのにもう!」

総司のからかいについつい乗ってしまった理子がぷうっと頬を膨らませた。それもすぐに機嫌を直すのは分かっている。

「そう言えば、夏休み、もうすぐですね」

不定期な仕事の二人と違って、世間はもうそろそろ学校の休みに合わせて休みを取る人達が増え始める。そして、直近で言えば、総司の姉の子供たちが夏休みに入り、帰省してくる。
駅へと向かった二人は改札をぬけて、むわっとする熱気を感じながらホームで電車を待つ。

「お姉さんとお子さん、いついらっしゃるのか決まりました?」
「次の土曜には。義兄は仕事があるのでお盆休みと週末だけらしいですけどね」

土曜日。

次のステージは八月に入ってからなので、週末は仕事が入っていない。

「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。姉は貴女に会えるのを楽しみにしてますから」
「分かってます。先生は週末お仕事ですか?」

滑り込んできた電車を見て、ぱっと理子の手を掴んだ総司が振り返る。

「いいえ。だから土曜日にでもどうですか?」
「はい……」
「じゃあ、そういうことで」
「……緊張します。先生のご両親はお好きなものとかありますか?お土産、何かお持ちしたいんですけど」
「そんな気遣いいりませんよ?そんなに遠いわけじゃありませんし」

のほほんと返す総司に理子は握っていた手を強くを掴んだ。
そんなわけにはいかないのだ。総司が何と言おうと、理子からすれば初めてお邪魔する家で、しかも指輪だって貰っている。
ただ遊びに行くわけではないだけに、失礼のないように、初対面で気に入られるかどうかはさておき、未来の家族に少しでも好印象を持ってほしいものなのだ。

着て行く物、持っていく物、いよいよなのだと思うと、ドキドキしてくる。

「うちの親よりも今度、ちゃんと斎藤さんご夫妻にきちんとご挨拶にいかなくちゃいけませんね」
「兄上に?どうして?」
「あのね。貴女の家族は斎藤さんでしょう?私だってちゃんと申し込みしないと。場合によっては斎藤さんのご両親にもですよね?」

確かに、斎藤が兄ならば斎藤の両親も、理子を娘同然にかわいがってくれている。結婚した斎藤達だけでなく、やはりそちらにも挨拶は必要かもしれない。

「こういう場合、男のほうが立場が悪くてねぇ」
「そんなことないですよ。私は、実の両親もいませんし」

―― 先生に釣り合うなんて思ってもらえないかもしれないのに

小さい声で呟いた理子に大丈夫ですよ、といいながらも総司自身、父に対してだけは多少の不安を抱えていた。

 

– 続く –