桜の木の下で 7

〜はじめのつぶやき〜
人によって残る想い出がちがうんですねぇ。
BGM:松 たか子 桜の雨、いつか
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着陸態勢に入ったというアナウンスで、総司は目を開けた。
僅かの間だったのに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

―― 懐かしい夢を……

ほんの、四半刻にも満たないくらいの時間だったはずなのに、記憶は鮮明で、空港で見たあの景色が思い出させたのかもしれない。

あの時、瓦を重ねたように八橋を並べていた総司に、呆れたセイが残りを土産にして持ち帰ったはずだったが、確か、総司の口には入らず仕舞いだった。
茶菓子の代わりに、近藤と土方に提供されてしまい、そのあとは幾度も黒谷へは足を向けたはずなのに、同じような機会には二度と恵まれなかった。

空の青さと、薄紅の花と。

『貴女と過ごせてよかった』

結局、そんな一言さえ伝えることはできなかった。

ふわっと不安感を誘う着陸時の浮遊感に身をまかせながら、総司は夢の中のセイの笑顔と、理子の顔がダブってきて、雲を抜け出たものの、うす曇りの地上に目を向けた。徐々に降下する機体とともに、距離感が近くなる地上へと意識が飛んだ。

機内預けの荷物がない分、さっさとゲートを抜けるとホテルへ向かった。途中で携帯の電源を入れて、斎藤から教わっていた事務所の担当者の番号を押す。

『はいっ!ソーレ音楽事務所北沢です』

電話の向こうから明るい女性の声がして、総司はなるべく落ち着いた声音で話し始めた。理子が所属している音楽事務所の担当らしい。

「朝早い時間に申し訳ありません。一橋と申します。斎藤さんの代わりご連絡させていただきました」
『ああ!一橋さんですね。斎藤さんからお話は伺っております。飛行機でいらっしゃってますよね。もう到着されましたでしょうか?私はホテルのロビーにてお待ちしておりますので、お越しいただけますか』

はきはきした女性の案内で、ホテルのロビーに到着した総司をスーツ姿の女性が出迎えた。理子よりも小柄な女性だが、その雰囲気は明るくてやり手な印象を受けた。

「改めまして、北沢と申します。わざわざご足労いただきましてありがとうございます」
「こちらこそ。一橋総司と申します。本業は調律師なんですが、時々、ピアノ弾きもしておりますので、ご縁がありそうですね」

差し出された名刺を受取った総司が、個人の名刺を差し出した。総司は特にどこかに所属しているわけではなく、個人で仕事を受けているだけに、理子と は少し違う。もちろん、理子もマネージャーがついているようなタレントとは違うが、こうした大きなコンサートや遠出の場合は事務所の人間が同行することが 多いらしい。

理子の部屋へと案内してもらいながら、総司は普段の事務所の仕事の仕方などを簡単に説明された。

「もし、ピアノ演奏の方でご紹介できる機会があれば、一橋さんにも是非ご紹介させてください」
「はは、ありがとうございます。でもそんなことをしたら吉村さんに邪魔!って言われそうですね」
「吉村さんもお知合いなんですね。うちの方でもよくお仕事させていただいております」

吉村は、所属という形ではないが、同じ事務所から仕事を受けているらしい。道理で理子と一緒になることが多いわけだ。

エレベータを上がって、客室フロアをまっすぐに進むと、部屋の前で北沢が立ち止まった。カードキーを取り出してから、ドアに差しこむ前に総司に向き直る。

「神谷さんにはいつもとてもよくお仕事していただいてます。いつもはこの時期はお仕事を入れないようにしているんですが、今回は打ち合わせだけということもあり、神谷さんも大丈夫だとおっしゃるのでお願いしてしまい、申し訳ありません」

流石に営業回りをしているだけある、丁寧な口調で頭を下げられて、総司は軽く手を挙げた。

「お詫び頂くには及びません。私も、しばらく前から一緒に暮らしていてもちっとも知らなかったので、お詫びするのはこちらの方です。よくしていただいているみたいですね」

斎藤への連絡、総司の出迎えといい、部屋に着くまでに、総司が知りたいだろう情報を簡潔に伝え、早朝にも関わらず、キチンと対応してくれた北沢へ、総司は頭を下げた。
北沢は、理子が事務所に入って以来の付き合いということもあって、本当に理子にはよくしてくれているらしい。

「こちらこそ。きちんとご挨拶をする機会がなくて、大変失礼をいたしました。じゃあ、お部屋に入りましょうか」

部屋に入る前に一言総司に詫びておきたかったのだろう。気が済んだのか、北沢はカードキーを差し込んで、ドアを開けた。

中に入ると部屋の入り口側だけはドアを開けた際に着いた明りが照らしているが、理子が寝ている壁際のベッドのあたりは暗くなっている。
整えられているものの、もう一つのベッドにも使った形跡があった。総司の視線に気がついた北沢が説明し始めた。

「私も昨夜はこちらで一緒に休ませていただいています。夕食を取った辺りまではいつも通りだったんですが、最終のフライトに合わせて空港へ向かう辺りになったら急に具合が悪くなって……」
「間に合わなかったわけじゃないんですか?」

昨夜の理子の連絡では、仕事が遅くなったからだと言っていた。総司の態度に北沢が思い当たったようで、ああ、と再び頷いた。

「昨夜、電話していたのは一橋さんだったんですね。打ち合わせは7時頃には終わって、こちらの担当者と一緒に食事をした後です。空港へ向かう頃に なって、急に具合が悪くなったんです。それで、そのまま飛行機に乗れるような状態ではなかったので、急遽こちらに部屋を取ったんです」

食べた物を戻してしまい、顔色も真っ青になって行く理子に、移動は無理と判断した北沢がすぐにこの部屋を手配して理子を休ませたのだ。斎藤へ連絡を 取ろうとした北沢に自分で連絡できるし、明日になれば大丈夫だからと譲らなかったらしい。理子はメールをした後に電話で誰かと話をしていたというのだ。

その時の姿を思い出して、北沢が少しだけ難しい顔になった。

「随分、無理をして明るく振る舞って電話しているなって思ったんですが、具合が悪いことを知られたくないようだったので口を出さずにおりました。それでも、一晩、良くなる気配がないので、朝早くで失礼とは思いましたが斎藤さんにご連絡させていただきました」

北沢は斎藤の仕事も知っているらしく、時間に構わずに急の場合は連絡をすることになっているらしい。
今さらながら、半年も理子の傍にいたというのに、そんなことも知らなかった自分に、情けなさと、噛みしめる切なさを抱えたまま、総司はそっと理子の眠るベッドサイドに近づいた。

深くまで毛布を引き上げて、シーツの間から覗いた顔は、苦しげにぎゅっと目を瞑っていて眠っているのかもよくわからない。そっと手を伸ばして、総司は理子の額に触れた。

「随分遅くまで眠れなかったようなので……」

背後から北沢が声をかけてきて、総司は手を引こうとしたとき、理子の瞼が動いて、うっすらと目を開けた。遮光カーテンがしまっていて、入口側からの明りだけのところで枕元に覗きこんだ総司の顔を見た理子は、数回瞬きを繰り返してから小さな声で何で?と呟いた。

ふっと笑った総司は、理子の前髪をかきあげるように撫でた。

「貴女の帰りが遅いので、迎えに来たんです」

一度ぎゅっと目を閉じた理子が次に目を開けた時には、寝不足の顔はそのままに無理やり張り付けたような笑顔で、毛布から顔を出した。

「わざわざここまで?やだな、北沢さんが連絡したの?もう……兄上に怒られちゃう」

目をこすりながら起きあがった理子を、表情を変えずに見ているのが精一杯で、総司はその無意識に口にされた呼び方を聞かなかったことにはできなかった。

 

 

– 続く –