桜の木の下で 8

〜はじめのつぶやき〜
いくら付き合った年数が短くても、切なさに辛くなることもあるんです。
BGM:松 たか子 桜の雨、いつか
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事情を知らない北沢は、起きあがった理子に、冷蔵庫の水を渡すと無理しないで、と声をかけた。総司に向かって部屋のキーを渡す。

「神谷さんの支度ができたら帰られますよね。ここのチェックアウトは11時なので、それまではゆっくりしていられますが、どうします?」
「大丈夫。北沢さん、申し訳ないんだけど、ちゃんと帰れるから、チェックアウトに合わせて飛行機予約してもらえますか?」

総司が答えるより先に、理子がはっきりとそう答えた。何かに挑むような鋭い目で、連絡をした北沢に怒っているのかとも思えたがそうではないらしい。理子は自分自身に怒りを向けることで何とか自分を保とうとしていた。
総司が頷くと、北沢が飛行機の予約を取りに行ってくれた。

理子は、何事もなかったようにベッドから起き出して総司の脇をすり抜けると、バックから化粧ポーチを取り出して着替えを手にした。

「シャワー浴びて支度しなきゃ。総司さん、今日のお仕事大丈夫なんですか?わざわざ来なくても大丈夫だったのに」

明るく言いながらバスルームに向かう理子に総司が言った。

「どうして無理するんです。そんなに私は信用できませんか」
「やだな、無理なんかしてないです。信用してないわけないでしょ?」

目を合わせずに答えた理子の言葉は、総司にはどうしても手が届かないところにいるようでひどく遠く響いた。口を開きかけた総司が何か言うより先に、理子はバスルームの中に姿を消した。

ため息というより、辛さを吐き出すような深い息を吐いて、総司はどさっと窓側のソファに腰を下ろした。

―― 知っているようで、まるで知らなかった。

急に見知らぬ人の話かと思う事を目の前に突きつけられて戸惑うより先に、知らされなかった事実に傷ついていた。

愛して、どれだけ傍にいるかわからないくらい一緒にいるのは自分だけと思い込んでいた姿が滑稽に思えて、総司は自分自身に腹が立った。
一緒にいられることが嬉しくて、幸せすぎて、目の前の事でいっぱいになって何も見えてなかった気がする。

今、一緒にいられるようになった時間よりもはるかに長い時間があったというのに、なぜ簡単に考えていたのだろう。

「傍にいるのに、こんなに遠い……」

呟くことが無意味だとわかっていても、思わず口から出てしまう。シャワーの音にかき消されていると思ったから、口に出したにしても。

丸いテーブルの上にあったリモコンを手にすると、テレビの電源を入れた。朝の情報番組はいつも通りの進行といつも通りのコーナーで、今日の天気予報を伝えている。

目はテレビを見ていても、少しも頭には入らなかった。
シャワーと着替えを終えて、化粧も終えた理子が出てきて、座り込んでいる総司に申し訳なさそうな顔を向けた。

「本当にごめんなさい。こんな朝早くから。コーヒーいれましょうか?インスタントだけど」

備え付けの紙コップとセットになったコーヒーに手を伸ばした理子に、総司は首を振った。

「大丈夫ですよ。いいから少しでも休んでおきなさい」

自然に出た言葉に、びくっと互いに動きが止まった。まるで沖田総司そのものの口調にどちらもしまった、と思った。
これでは本当に過去に引きずられてしまう。

「ごめん。本当に無理しないで」

慌てて言い換えた総司に理子が黙って頷くと顔を逸らした。
記憶は記憶で、思い出すことも過去も事実でしかないのに、良い悪いで蓋をしてしまいたくなる。

そこにノックの音がして、北沢が飛行機の手配を終えて戻ってきた。総司は立ち上がって、出迎えた。

「お待たせしました。ちょうど良い時間がなくて、チェックアウト後の11時台で予約してきました」
「わかりました。お手数おかけしました。北沢さんも同じ便で戻られますか?」
「いえ、大変申し訳ないんですが、私は今日も会議がありますので、この後の9時台の便で戻ります」

北沢は、総司に飛行機の予約やチェックアウトを伝えると、先に帰ることを詫びながら部屋を出て行った。北沢が出て行ってすぐ、総司は携帯を取り出して、斎藤へ連絡を取った。

「斎藤さん?今よろしいでしょうか」
『ああ。どうだ?』
「無事に合流できました。11時台の飛行機で戻ります」
『そうか。帰ってこれそうならいい。アンタは大丈夫か?』

―― 鋭いな

総司は内心、舌を巻いた。何も言ってはいないし、淡々とした連絡だったのに、確実に斎藤には伝わっている。軽く目を伏せた総司は、浅い呼吸で気取られないように答えた。

「大丈夫ですよ」
『アンタがどれだけ嘘つきなのか知らん俺ではない。だが、今はすまないが堪えて戻ってきてくれ。後でいくらでも聞いてやる』
「ご好意にはいつも感謝してますよ。それじゃあ、また」

通話を切ると、先程まで座っていたソファに腰を下ろす。理子が所在無くベッドの傍に立ったままで総司を見た。

「斎藤さんですか?」
「ええ。心配してましたから、戻ったら貴女からも連絡してくださいね」
「わかりました。何かお土産でも買って帰ってお詫びしなくちゃですね」

バックに荷物を入れて、いつでも移動できるようにした理子に、総司は目の前の椅子に座るように言った。

「休んで、ゆっくり帰りましょう」
「心配しすぎですってば。私……」
「どうして何も言ってくれないんです!」

明るく誤魔化そうとした理子に、総司がつい、大きな声を出してしまった。びくっと、振り払われたかのように、理子が怯えた顔を見せる。このままではひどい言葉を浴びせかけてしまいそうで、総司は気力をかき集めてどうにか自分を抑え込んだ。

「すみません。心配だったんですよ。ほら、緊急連絡先が斎藤さんだなんてことも知りませんでしたし?」
「あっ、それは……ずっと斎藤さんにお世話になっていたからってことで、総司さんはうちに所属してる人達にも知られているので、言いづらくて……」
「ちょっとだけ、拗ねてみただけです。斎藤さんは貴女にとって実家みたいなものですからね」

総司が笑顔を見せたので、ほっとした理子が勢いこんで頷いた。そうなんです、と言うことが余計に総司にはやりきれない気分にさせていることには気づかずに。

「学生の時から斎藤さんは兄上同然でしたから、ずっとそのままだっただけなんです。あの、時々、季節の変わり目とかは、体調崩しやすくて……」
「……春先が嫌いだからでしょう?」

一生懸命、言い繕おうとする理子の姿に静かに総司が言った。その一言で理子がぴたりと固まった。

「まだ私を恨んでいても仕方がないですよね。私は、貴女に、最後にとても悲しい、ひどい想い出しか残していないんですから」
「違っ……!」
「いいんですよ。私は貴女が傍にいてくれるだけで嬉しかった。ただそれだけなんです。もし、それが桜の季節の事だというなら」

 

―― 別れましょうか

 

窓の外からは離着陸する飛行機の音が聞こえていたが、部屋の中だけは違う時間が流れていた。

とても、心が凍えてしまうような。

 

 

– 続く –